おはようございます。宿毛伝道所の酒井啓介です。
最初に私事で恐縮ですが、私は、学生の頃に趣味で大きなバイクにのって頻繁に旅行に出かけていました。テントを積んで、何人もの友人と共に、色々な所へ行きました。いつも、わくわくしながら勢いよく出かけたものです。その旅行で、忘れられない出来事があります。それは、道に迷った時にいつも正しい道へ引き戻してくれる友人の存在です。私は道をよく間違えました。道路標識の看板を見落としたり、見ても自分の思い込みで理解をして走って行くので、とんでもない方角へ走ってしまって、その都度友人から注意されていました。わくわくしながら走るものですから、大胆に道を間違えてしまうということもありました。その時、私は道を間違えた実感は全くありませんでした。
一緒に走る友人の中には、私とは対照的で、初めて通る道でも殆ど迷うことのない人がいました。彼は、私が迷った時に、あるいは道路の交差点でどちらの方向へ行けばよいかわからず立ち止まった時に、いつも助言してくれていたのを、私は鮮明に覚えております。「彼と一緒に走れば、正しい道に戻り、ちゃんと目的地へ連れて行ってくれる」、彼はそんな安心感を与えてくれた友人でした。
私たちは、目標を掲げてもなかなか到達できないという経験があるかと思います。時々、簡単な目標を掲げたとしても、目標へ向けた歩みが途中でそれていたり、間違っていたりしてなかなか達成できない。自分が間違っていることに気付かず、ずいぶん後になって気がついた、そういうことは、ないでしょうか。
私たちに、まことの信仰をお与え下さる神様は、私たちに信仰を与えて下さるだけでなく、私たちが信仰を持ち続けることが出来るように最後まで導いて下さいます。そして、救いの完成という目的地へ必ず連れて行って下さいます。私たちの信仰が弱ったり、信仰の歩みがそれてしまったりして、ついつい自分の思い込みの方向へ歩み出してしまっても、神様は決して見捨てることはありません。信仰の道からそれてしまう時に、自分は今それているという実感を持つことができればよいのですが、自己中心となっている罪人には困難なことです。そのような私たちに、神様は御言葉を通して、私たちの誤りを示し、まことの信仰の道を指し示して下さいます。そして、信仰者が必ず救いを達成できるように、復活への道のりを指し示し、導き続けて下さるのです。
聖書には次のように記されています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています」(フィリピ1:6)。
善い業を始められた方とは、キリストを信じる信仰を人々にお与えになった神様です。神様が、その救いの業を完成させて下さるのです。
私たちがどれほど愚かで、悔いてもなお罪を犯すひどい人であっても、私たちのひどさよりも、神の愛は遥かに大きいのです。そのように私達を愛して下さっておられる方が、イエス・キリストであり、その愛の証しがイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは道に迷いやすい私達を見捨てず、聖書の御言葉を通して語りかけて下さり、生きるべき道筋を指し示して下さいます。そして、救いの完成へ至るまで聖霊の恵みを注ぎ続けて下さるのです。