おはようございます。宿毛伝道所の酒井啓介です。
私たちは、過去を振り返れば恥ずかしくなるような失敗があるかと思います。私はたくさんあります。それは信仰面においても、勿論そうです。キリスト者でいるのも、申し訳ないと思ったこともありました。しかし不思議と一度も信仰を捨てようと思ったことはありませんでした。
私たちが自分の過去を振り返ると、とても人前に出られるようなものではない、と腰が引けることがあるかもしれません。しかし、それでも時に、私たちはしっかりと人前に立たなければいけない時があるでしょう。人に、伝えなければならないことがある時に、また、理解してもらわなければならないことがある時に、しっかりと自分自身を表す必要があると思います。
イエス・キリストの弟子の一人であるペトロ。新約聖書には、彼の様々な失敗談が記されています。イエス様を信頼して湖の上を歩き始めたのに信頼しきれず沈んでしまったり、イエス様の行動を妨げて「退けサタン」と叱られたり、イエス様のことを「知らない」と3度も言ったりしています。そのように、度々失敗をしてきたペトロは、イエス様が復活して天へ昇られた後、聖霊の力によってイエス・キリストを証しする力を与えられました。
ある時彼は、一人の生まれながらに足の不自由な男に出会いました。この足の不自由な男は、神様に礼拝する場所である神殿の入り口に座って物乞いをしていました。礼拝を捧げる場所には大勢の人々がやってきます。その中には、政治家のような立派な人、学者のような優秀な人、また伝統ある家系の人などの、人々の目をひきつけるような風格のある人々が大勢いたはずです。一方、ペトロは、普通の人だったと思います。また、イエス様に対して、度々失敗を繰り返していたそそっかしい人です。自分を堂々と誇れたとは思いません。
しかし、この足の不自由な男がペトロを見つけ物乞いをした時に、ペトロが語った最初の言葉は、「わたしを見なさい」でした。堂々とした言葉だと思います。この時、ペトロは神様の恵みに満たされていたのです。今まで失敗を繰り返してきたペトロ。自分自身に、何も誇れるものは無いことはよくわかっていました。しかし、彼はイエス・キリストを証しすることにおいて、神様の恵みが豊かに与えられていたのです。その後、ペトロは、この足の不自由な男に向かって力強く、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は、驚くべきことに自力で立ち、走ったり、踊ったりすることができるようになったのです。そして、その出来事はその場にいた大勢の人々に目撃されました。
神様はイエス・キリストの名において働いて下さるのです。一方私たちはこの名においてイエス様を証しするのであれば、ペトロが最初に語ったように「わたしを見なさい」といえるのだと思います。自分自身にはとても誇れるようなものがなくても、それ以上にイエス様を証しする神の恵みが豊かに与えられているのです。もっと言えば、わたしを見なさい、と言えるほどまでに、神様の恵みが余すところ無く注がれているのであります。
この恵みの座にたって、今週も共に歩んで参りましょう。