お早うございます。今日はご機嫌いかがでしょうか。山田教会の泥谷ちひろです。
子どもが小さいころ、「なぜ?」「どうして?」という言葉を連発する時期があります。知識欲が盛んなころですね。あることに疑問を持つと、「どうして新幹線は速いの?」とか、「どうして夜は暗いの?」とか、「どうしてお星様はキラキラ光るの?」とか、延々とこういう質問をすることがあります。時々返答に困ってしまうことさえあります。ある科学者が言っています。この「なぜ?」を追求して行くときに、素晴らしい発見があるのだと。本当にそうだと思います。
これとは別のなぜがあります。大人になると、この社会で、なぜ?と問いたくなるようなことがしばしば起こります。善良な人が突然、命を絶たれたりすると、「なぜこのような人があのような目にあうのだろうか」と思わされます。また、普段、真面目で大人しく、よい人と言われていた人が、どうして?と思わされるような殺人事件を犯すことが起こります。どうしてでしょうか。全く理解に苦しみます。でも、突き詰めて、よく考えてみれば、聖書にその答えがある場合が多いのではないかと思います。犯罪を犯した人の心の中にある罪が、善良な人を殺してしまうほどに、その人をコントロール出来ないような状態に追いやってしまうからだと思います。良いイースト菌が粉をふくらませると美味しいパンが出来上がります。しかし、悪いイースト菌、すなわち罪がふくらませると味の悪いパンになってしまいます。
ある人は、神様がいるならば、どうしてこんなに悪いことが起こるのかと言います。しかし、このように言うことは、ちょうど、親が子どもの幸せを願ってこうしなさい、ああしなさい、こうしてはいけない、ああしてはいけないと言うとき、親の言うことを聞くより、自分の思うようにやって失敗したのに、親が悪いと考えて、親に楯突く子どもに似ているのではないでしょうか。このような考えと言葉は、罪から出て来るのです。この罪から、私たちはイエス・キリストの愛によって救われなければなりません。私たちは生まれつき、神さまに反逆する罪を持っています。
小さい子どもの時に、神さまはどんなお方であるかを知ることは、本当に大切です。イエス・キリストを通して、まことの神さまを知ること、自分を知ること、そして罪を知ることがどんなに大切かということを、皆がもっともっと真剣に考えなければならないと思います。
最近は、親子のスポーツとか、経済的にゆとりのある人は、子供をキャンプなどのある楽しいサークルに入らせたり、いろいろなお稽古ごとをさせることに一生懸命です。しかし、これらにまさって大事なことは、子どもたちの心と魂の教育ではないでしょうか。
神を知り、人を知り、自分を知る心を育てることに専念している日曜学校に、ぜひ子どもさんたちを送ってください。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」とイエス様は言っておられます。皆様の上に神さまのお導きがありますように。