おはようございます。山下正雄です。
キリスト教会が自分たちの信仰を言い表した古い文章に「使徒信条」と呼ばれる簡潔な文章があります。カトリック教会とプロテスタント教会が共に重んじている基本的なキリスト教信仰の箇条です。
その使徒信条の日本語訳はこういう出だしで始まります。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
しかし、ラテン語の語順では逆で「我は神を信ず」という出だしで始まります。そして、その神とはどんな神なのか、間髪いれずに、「父」であると説明されます。日本語に訳すと「父なる神」は最後におかれますが、ほんとうは「父である神を信じる」というのが出だしの言葉なのです。
「神が父である」というのは、素朴な意味ではどの宗教にも共通したところがあるかもしれません。つまり、天地万物を生み出し、人間を造ったお方として、神は我々の父であり、我々はその子孫であるという考えです。
しかし、キリスト教会が神を父と呼ぶのは、もう少し違った意味からです。
使徒信条全体を眺めてみると、大きな三つの柱があります。それは「父である神」、「その独り子であるイエス・キリスト」、そして「聖霊」です。
「父なる神」とは、その「独り子」であるイエス・キリストに対して「父」なのです。
では、神はわたしたちの「父」ではないのか、というとそうではありません。イエス・キリストが教えてくださった「主の祈り」の中で、わたしたちは神を「我らの父よ」と呼びかけるようにと教えられています。なぜわたしたちにとっても神は「父」なのでしょうか。
聖書は、イエス・キリストを通してわたしたちが神の子とされたということを、いたるところで強調しています。しかも、怒りをもってわたしたちに向き合う父ではなく、恵みと慈しみをもってわたしたちを支えてくださる父です。聖書は言います。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ3:26)
「我は父なる神を信ず」という言葉の中には、イエス・キリストを通して神の子とされた救いの恵みが言い表されているのです。イエス・キリストの父なる神であると同時に、わたしにとってもイエス・キリストを通して父として振る舞ってくださるお方を信じ告白しているのです。
ところで、「父である神」と言われても、わたしたち人間が思い描くことのできる父親像は、どうしても現実の人間の父親の姿です。どんなによく思い描いたとしてもせいぜい理想化された父親像です。こうした人間の父親像から神を思いめぐらせるのは本末転倒かもしれません。しかし、神はそれでもご自分が人間から父と呼ばれることをよしとされていらっしゃるのです。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:11)
人間の父親は完璧ではありません。しかし、完璧ではないにしても、子供のために精一杯のことはしてやろうと思うものです。不完全な人間の父親でさえそうであるのなら、完全で全能の父なる神がなおさらわたしたちによくしてくださらないはずはないのです。