おはようございます。清和学園の後登雅博です。
聖書には「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)と書いてあります。つまり、全てのことが良い方向へと進んでいく、ということです。人生においては、色々なことが起こります。嬉しいこともあれば、悲しいことも起こります。しかし、どのようなことが起こっても、それら全てのことが、最終的には自分にとって良かったと思えるようになる、と聖書は言うのです。どうしてでしょうか。
なぜなら、キリスト教では、唯一の神を信じるからです。キリスト教で神様というとき、その神様は天と地と、その中にある全てのものを造られた神様という意味です。もちろん、私達も神様によって造られました。
私達が何か物を作るとき、そこには目的があります。例えば、ここに時計があるとします。時計の中には、小さな部品がいっぱい詰まっています。でたらめに部品を組み合わせたのでは、正確に時を刻む時計は出来ません。時計には、時を正確に刻むという目的があり、そのために設計図があり、組み立てる人がいます。
時計を世界に置き換えてみると、やはり世界にも目的があり、設計者が居るのです。それが、神様です。神様が世界を造った目的、それは私達人間が幸せに生きるためです。
聖書の1番初めに創世記という書物があります。創世記には、世界が神様によって造られたと記してあります。創世記によると、実は人間は1番最後に造られているのです。人間が住むための環境が整えられたあとで、人間が造られているのです。つまり、人間のために神は世界を造られた、といえるのです。もちろん、だからといって人間が世界や自然を自分の好き勝手にしても言いというわけではありません。人間は世界を上手に管理することが神様から求められています。
ところが、神様が造った世界に、罪が入ってきました。最初に造られた人間、アダムとエヴァが失敗したからです。罪というのは、本来悪いもの、嫌なものです。でも、神様にとっては、罪といえども、嫌なことや失敗と思えることでさえも、良いものと変えることが出来る、というのです。
私達にとっては、失敗や、嫌なことというのは、いつまでも残ってしまうことがあります。でも神様は、そういうものをも私達にとって役に立つもの、良いものに変えてくださるのです。
なぜなら、神様が私達に望んでおられることは、私達が生き生きと喜んで生きることだからです。そして、私達の喜びのために世界を造ってしまう神だからです。つまり、私達のために全てのものを用意し、全てのものを犠牲にすることさえ惜しいと思わないほどに私達のことを愛しておられるのです。
キリスト教のシンボルといえば十字架です。皆さんご存知のように、イエス・キリストは十字架に磔にされました。イエス・キリストは、私たちのために神様が犠牲として与えてくださった方です。
神様はイエス・キリストを十字架につけるほどに、私たちのことを愛しておられるのです。つまり、神様は、私達のためにはいつでも、全てを犠牲にする準備のある方なのです。ですから、良いことはもちろん、悪いことでさえ神様によって、私達の幸せに役に立つものと変えてくださる、と信じることが出来るのです。私達が喜んで生きることこそ、私達の人生の目的であり、神様も望んでおられることだからです。