おはようございます。高知教会の久保浩文です。
皆様は、春という季節から、何を心に思い浮かべるでしょうか。私は、春というと、野山や木々に咲き誇る花を思い浮かべます。啓蟄(けいちつ)という言葉がありますが、寒い冬の間、土の中で冬眠していた生き物が地表に顔を出し、地中深く埋もれていた小さい命が、待ってましたとばかりに一斉に芽吹いて野山を彩ります。
昨年2008年5月に高知市で国内最大級と言われる「ジャパンフラワーフェスティバル」が開かれました。私も、大勢の観客に混じって見物に行きました。そこには約10万本の花が色鮮やかに咲き誇り、高知のシンボルである「はりまや橋」や「だるま夕日」を表現した庭など、様々なフラワーアレンジメントを満喫することができました。
花から漂う甘い香りに誘われながら、作品の一つ一つを丁寧に見ていきますと、存在を強調している花もあれば、控えめに周囲の花を引き立てている花もあることがわかります。花の一本一本が、それぞれに役割を与えられており、その中のわずか一本でもかれてしまったり、引き抜かれたりすると最初のものとは全く違うアレンジメントになってしまうのです。つまり大きな花も小さな花もそれぞれが一つのアレンジメントの中で不可欠な大切な一本なのであって、全体で一つの調和のとれた作品なのです。
私たち一人一人の存在も、これと同じではないでしょうか。
「あなたはわたしの内臓を造り 母の胎内に私を組み立ててくださった。…秘められたところでわたしは造られ深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。」これは聖書の詩編の一部で、神様の創造の業について書かれたものです。
私たちは、神様の深い御旨とご計画によって、母の胎内に生を受け、この地上に生まれ出ることを許されたのです。しかも神様は、約十ヶ月の間、母の胎内にて骨組みと内臓だけでなく、私たち一人一人を異なる個性と人格を有するものとして作られました。ですから、自分と同じ人は、この世に二人と存在しないのです。そして、その人にしかない、固有の賜物、能力が与えられています。それは、神様が、その人にしかできない、この地上における使命と役割を定めておられるからです。
ですから私たちは、神様の目からして、誰一人として無価値で不必要な存在はないのです。私たちに与えられている全てを本来の目的のために使ってこそ、私たちは生き生きと輝いてその人らしい生き方ができます。それは決して他者と比較したりする必要はありません。世界にただ一人のあなたであり、私なのです。
神の御子イエス・キリストは、私たち一人一人を心から愛し受け入れてくださいました。しかも、私たちの罪の身代わりとして、私たち一人一人の命を救うために、ご自分の命を引き換えに差し出してくださったのです。それによって私たちは、一人一人が真に尊く、価値のあるものとされたのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と聖書に記されています。
たとえ私たち一人一人の存在はこの広い世界の中では小さく無価値のように見えても、神の目、イエス・キリストの目からは、かけがえのない特別な一人なのです。「神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なるもの、汚れのないものにしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって「神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」のです。