おはようございます。芸陽教会の宮武妃呂美です。
…人は誰でもたった一度の人生を悔いのないように生きたい、自分の人生は最高だと満足できるものでありたいと願わない方はおられないと思います。…では、最高の人生とはどのような人生でしょうか。… ある方は自分の人生の目標を達成することだとお思いになるかもしれません。いずれにせよ、最高の人生とは、豊かな実りを与えてくれるものではないでしょうか。
聖書には、“最高の道がある”と記されてあります。…最高の道とは何でしょうか。それは愛であるというのです。では、愛するとはどのようなことなのでしょう。
コリントの信徒への手紙一には「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。
この愛というところに、「私は」と入れてみると、「私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、高ぶらない。…」こう読んでみると、私たちは自分の内にはこのような愛はもちあわせていないことに気づかされます。しかし、聖書は私たちに先立って、この愛を行って下さった方がおられると語っています。それが、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たち人類の罪の身代わりに十字架にかかられた時でさえ、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」と父なる神に祈ってくださいました。
私たちがまだ神に背を向けている者であった時、キリストは私たちに対する愛を示してくださったのです。
愛は、神からの賜物です。はじめから自分の内にあるのではなく、神から与えられるのです。そして、人は神から愛されていることによってのみ、愛することを学ぶのです。
幼子が両親、特に母親に愛されていることによって、その内に愛が蓄えられていくように、私たちも、神のひとり子であるイエス・キリストが、この私の罪のために十字架の上で死んで下さった、この私のために命をなげうって下さったという愛を知るとき、その応答は神にだけ向けられるのではなく、神が同じように愛しておられる人々にも向けられるのです。
聖書に善きサマリヤ人のたとえ話があります。ある人が旅の途中、強盗に遭い持ち物全部を盗られたあげく、瀕死の重傷を負って道端に倒れていました。そこを通りかかった聖書の教えに精通していた祭司やレビ人はその旅人をみて素通りしていきました。しかし、異邦人と呼ばれたサマリヤ人はその人を介抱し、宿屋まで連れて行き、主人にお金を渡して十分な手当てを頼みます。
私たちはこのたとえ話を聞くとき、愛は単なる知識ではなく、具体的な行いであることがわかります。私たちは神さまからイエス・キリストを通して十分な愛を与えられると幼子が少しずつ成長するように自分のことだけではなく、他者のことをも顧みることのできる成熟した大人へと成長することができます。そして、神から受けた愛を分け与える者へと変えられていくのです。
聖書でパウロという人は、神から愛されている私たちに対して、「愛を求めなさい」と語ります。この神からの賜物である愛を求めて生きる時、私たちは、他者と共に生きる人生、豊かな人生へと導かれていくのです。
最高の人生とは、この愛を求め、愛に生きる人生です。どうぞ、あなたも、神様を知り、最高の道を歩んでくださいますよう、お祈りいたします。