BOX190 2009年12月30日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 改革派的祈りとは ハンドルネーム・改革派大好きさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今年最後のご質問はハンドルネーム・改革派大好きさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「いつも山下先生を始め、多くの先生のメッセージを聞かせて頂き、有り難うございます。私は他の教派から改革派の教会に通わせて頂いております。
 このような質問を致しまして良いのか分かりませんが、改革派教会の祈り会では個人的なことを祈ることが殆ど無いように思われます。比較のような形になってしまい誠に申し訳ないのですが、以前行っていた教会では祈り会は2、3人が組になり、公の祈りの課題と共に個人的な課題の祈りをすることが出来ましたが、改革派では個人的な課題を言えない雰囲気というのがあるように感じます。
 人間的な側面、人間からの行動の面で見ますと、ウエストミンスター小教理問答書・大教理問答にもありますように祈りは恵みの手段とありますように、もっと個人的な祈りもささげても聖書に反することではないと思われるのですがいかがでしょうか。教会によって実践も雰囲気も異なるとは思いますが。
 また改革派教会では祈祷会の日が祝日であると祈祷会を休みにする傾向が強いと思えます。先生にも休みは必要と思われますが、もう少し祈りに熱心でも良いように感じます。批判としてではなく、改革派が改革派らしく、ウエストミンスター信仰基準にふさわしくなるためにもこのようなことを書かせて頂きました。批判とは取らないで下さい。聖書が教える祈りの姿勢、改革派が目指す祈りの姿勢を教えていただければと思います。宜しくお願い申し上げます。」

 改革派大好きさん、とても率直なお便りありがとうございました。同じ教会でずっと過ごしていて当たり前と思っていたことも、ちょっと違う教会の方たちと触れ合ってみたときに、同じキリスト教会でありながらびっくりするくらいの違いがあることに驚いてしまうという経験をおもちの方は多いと思います。そういうときに、ついつい教派意識が出てきてしまって、相手のことを十分に理解しようとしないことがよくあるように思います。
 幸い今回のお便りは、違いの発見から、より聖書的な祈りの姿勢とは何かということにわたしたちの思いを向けさせてくださっています。
 きっとこの番組を聴いている方の中にも、お便りの中に出てくるような教会で祈りの生活を送っている方もいらっしゃると思います。そういう方たちにとっては、そのような問題を指摘されること自体が腑に落ちないと思われるかもしれません。
 また逆に、同じ改革派教会の方でも、きょうのお便りを聴いて、「うちの教会では、そんなことはないよ」と思われた方もきっといらっしゃると思います。
 お便りに関して、いろいろなご意見やご感想がでてくるとは思いますが、それをきっかけとして、聖書が教える祈りの姿勢についてご一緒に考えてみたいと思います。

 さて、今回取り上げようとしていることは、教会の公の集会としての祈祷会に関すること、と限定させていただきます。もちろん、祈りは公的な祈りも私的な祈りも神の恵みを受ける手段には違いないのですが、この「公」と「私」の区別は聖書の中にも教えられている大切な区別であると思います。

 今わたしの頭の中にある具体的な聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一の14章26節以下に記されたパウロの言葉です。この箇所は12章から続いている「霊的な賜物について」の教えの結論部分ですが、パウロは二つのことを強調しているように思います。
 一つは「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべき」であるという点です。
 ここで言われているのは霊的な賜物を教会の公的な集会で用いる場合のことに関してですが、教会の集りというものはそもそも建徳的な目的をもっています。
 そのことを祈祷会について当てはめると、そのとき祈られる祈りの課題は、やはり教会を建てあげるのに役立つ内容であるべきだと思います。教会というのは具体的にはそこに集まっている一人一人のクリスチャンによって構成されているものです。ですから、パウロの言葉を借りれば「あなたがたを造り上げるために」祈りの課題を取捨選択すべきなのです。
 個人的に一人で祈る祈りでは、どんなことでも祈りの課題として祈ることが許されるとしても、公の祈祷会では教会全体の徳を建てあげるのにふさわしいかどうか、健全な判断が必要だと思います。内容が私的か公的かという区別ではなく、教会全体の徳を建てあげるのにふさわしいかどうかということが大切な基準です。

 したがって、個人的な内容だから公的な集会では祈ってはならないというのは、聖書的な基準とはいえないでしょう。教会の建徳のために役立つ祈りの課題であれば、個人的な内容であっても、どんどん祈っていただきたいと思います。

 もう一つ、この手紙の箇所でパウロが強調している点は「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」ということです。これは教会と言う集まりの中で守らなければならない基本的なルールです。

 祈祷会の持ち方に関しては、こうあるべきだという具体的な記述は聖書の中にはありません。ある程度、それぞれの教会の工夫に委ねられていると考えてよいでしょう。全員が一人ずつ順番に祈るというやり方もあるでしょう。あるいは代表者が何名か祈ると言う持ち方もあります。あるいは、組に分かれて全員が祈るという仕方もあります。どの方法で祈っても不適切で無秩序だとはいえません。ただ、その教会が決めた方法を重んじるということが、ものごとを適切に、秩序正しく行う一歩であると思います。そして、祈祷会の持ち方を変える場合には、適切で秩序正しい方法と手段を使って、建徳的なやりかたで変えていくのが聖書的な教会のルールであると思います。

 ところで、個人的な祈りの課題で気をつけなければならないことが一つだけあります。それはプライバシーの問題です。どんなに善意から出たものであれ、公的な集会で個人のプライバシーが侵害されるような祈りは避けるべきです。
 具体的には、たとえば「Aさんは会社をクビになって今とても困っています。Aさんとその家族のためにみんなで祈りましょう」という祈りです。Aさんはごくごく親しい人にはそのことを打ち明けて祈ってもらいたいと思ったかもしれません。しかし、教会員全員にその事実を知って欲しいとは思っていないかもしれません。どんなに善意から出た祈りでも、公の場で祈るには相手への配慮も大切です。
 そういう配慮が強く働きすぎて、祈祷会での祈りが当り障りのない公的な内容になってしまうというのもあるように思います。

 さて、最後に「改革派教会では祈祷会の日が祝日であると祈祷会を休みにする傾向が強いと思えます」という点に関してですが、そういう傾向が強いのかどうか、正確に調べたことがありませんので、肯定も否定も出来ません。ただ、主の日の礼拝以外の公的ないろいろな集会を、ある日に開くか開かないかは、それぞれの教会にまかされているというのは事実です。
 しかし、「もう少し祈りに熱心でも良いように感じます」と信徒に思わせてしまうような教会であるとすれば、それはとても残念に思います。おそらくそういう印象を抱かれたのは、祝日に祈祷会を休みにしたということだけを指しているのではないと思います。その教会が持っている祈りに対する消極的な雰囲気が、いろいろな場面に現われてきているのではないでしょうか。

 それこそ、教会を建てあげるために、適切に、秩序正しく、問題の解決にとりくむことができればと思います。聖書的な教会の姿勢に近づけるために、そうゆうふうに考えることが大切ではないでしょうか。

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