BOX190 2009年12月16日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 決して過越の食事を取らないとは? 栃木県 S・Mさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は栃木県にお住まいのS・Mさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「ルカによる福音書22章16節に『神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない』とあります。神の国で過越が成し遂げられるとはどういうことですか。過越の支度をさせておいて、共に過越の食事をしたいと願っていたのに、食事をしないとはどういうことなのですか。
 また、ハイデルベルク教理問答の中で『主の晩餐』と言われますが、『最後の晩餐』とは言わないのですか。」

 S・Mさん、お便りありがとうございました。今回はイエス・キリストが弟子たちと最後の食事をとった、いわゆる最後の晩餐に関するご質問です。さっそく一つずつ取り上げてみたいと思います。

 まず、最初のご質問は、ルカによる福音書22章16節に出てくる「神の国で過越が成し遂げられるまで」という言葉の意味についてです。

 厳密に言うとギリシア語聖書の16節には「過越」と言う言葉も、「過越の食事」と言う言葉も出てきません。「これ」とか「それ」という代名詞で記されています。つまり、直訳すれば「神の国でそれが成し遂げられるまで、わたしは決してそれを食べることはない」。
 では「それ」が何を指しているのか、というと直前の15節でいわれる「過越の食事」であることは間違いありません。
 けれども、「過越の食事」と訳されているギリシア語の単語「パスカ」には少なくとも三つほどの意味があります。一つは「過越の祭り」と言う意味、もう一つはその祭りのときに食べる「過越の食事」と言う意味、それからもう一つは、過越の祭りの起源となる救済の出来事としての「過越」と言う意味の三つの意味です。

 さて、16節にでてくる代名詞が「過越の食事」を受けているとすれば、次のように翻訳しなければならないはずです。

 「神の国で過越の食事が成し遂げられるまで、わたしは決して過越の食事を食べることはない」

 「決してそれを食べることはしない」という「それ」が「過越の食事」を指していることは「食べる」という動詞との組み合わせから明らかです。しかし、「神の国でそれが成し遂げられるまで」という場合の「それ」が直前の節の「パスカ」を受けていることが間違いないとしても、その内容は「過越の食事」を指しているのか「過越の祭り」を指しているのか、あるいは出来事としての「過越」を指しているのか、必ずしも明らかではありません。少なくとも新共同訳聖書の翻訳者はその部分を「過越」と翻訳しています。

 その場合、神の国での「過越」が何を指すのかということが問題になります。その場合の「過越」が指し示そうとしている事柄として考えうるもっとも確実な答えは、過去にイスラエルが体験した「過越」を原型とした救済の出来事が成就するという意味でしょう。「神の国で」という表現は、18節の「神の国が来るまで」というのと同じで、究極的な意味での完成を表現していると考えることが出来ます。つまり、言い換えるなら、「救いの業が完成を迎えるまで」というのと同じ意味です。

 しかし、この部分を「神の国で過越の食事が成し遂げられるまで」という訳し方も可能だと思います。その場合、イメージされていることは、天の御国での宴会です。
 イエス・キリストご自身、神の国とその宴会のことをたとえ話の中で語っておられます(マタイ22:1-14、ルカ)。この場合にも結論から言えば、「救いの業が完成を迎えるまで」というのと同じ意味ですが、救いの完成を、神の国での宴会のイメージで表現しているという違いがあります。

 さて、二番目の質問に移りますが、「過越の支度をさせておいて、共に過越の食事をしたいと願っていたのに、食事をしないとはどういうことなのですか」…このことについて考えてみることにします。

 ルカ福音書のこの部分に関して、二通りの理解があります。一つは、結局イエス・キリストは16節に記されているとおり、神の国で過越が成し遂げられるまで、弟子たちと過越の食事を取らなかったという読み方です。
 この解釈に従うと、S・Mさんの疑問のとおり、釈然としない思いがします。しかし、それは読み方の問題でもあると思います。
 15節と16節の関係ですが、ギリシャ語の聖書には「なぜなら」という理由を示す言葉が間に入っています。16節は「なぜ、切に願ったのか」、その理由が記されているのです。つまり、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決して過越の食事を食べることはないのだから」、だから「共に過越の食事をしたいと願っていた」と言うことが出来ると思います。

 ところで、イエス・キリストは結局弟子たちと共に過越の食事を口にしなかったのでしょうか。
 16節の言い方だけを見ると、食べなかったような印象を受けます。しかし、18節の言い方を見ると、そうではないような印象を受けます。つまり、18節ではこう言われています。

 「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

 つまり、18節は今から後のことを言っているのです。
 先ほども16節と18節が密接な関係にあることに触れましたが、16節が言っていることは、18節と並行関係にあると考えれば、16節が言おうとしていることは「今後」の話です。つまり、これから取ろうとしている過越の食事はこれには含まれないと言うことです。従ってイエス・キリストは弟子たちと過越の食事を共にしたと言うことになります。

 さて、それでは、最後の質問にお答えして終わりにします。

 「ハイデルベルク教理問答の中で『主の晩餐』と言われますが、『最後の晩餐』とは言わないのですか。」

 ハイデルベルク信仰問答書の中ではいわゆる聖餐式のことを「聖晩餐」(Q68、75)とか「主の晩餐」(Q80)と呼んでいますが、S・Mさんのおっしゃるとおり「最後の晩餐」という言い方は出てきません。

 実は聖書にも「最後の晩餐」という言い方はどこにも出てきません。しかし「主の晩餐」という言い方も聖書の中ではコリントの信徒への手紙一の11章20節に一度だけ出てくる言い方です。後にも先にもここ以外「主の晩餐」という言葉は出てきません。
 ハイデルベルク信仰問答の中で「主の晩餐」あるいは「聖晩餐」と言う用語を使うのは、この聖書の用語に従ったのだと思います。
 また、「最後の晩餐」と言う場合には、文字通りイエスが十字架にかけられる前の夜、弟子たちととった最後の食事を指しますから、それは一回限りの歴史的出来事です。しかし、聖餐式はその歴史的出来事を単に再現しているわけではありません。従って聖餐式を「最後の晩餐」と呼ぶのはふさわしくないのではないかと思われます。

コントローラ

Copyright (C) 2009 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.