タイトル: 福音書以外は不要なのでは? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「新約聖書に記された物語の中で、4つの福音書はイエス様が語られ、また働かれた内容を直接記していると考えられますので、その内容を吟味、精読する意義はあると思います。しかし、新約聖書の他の物語は、イエスの弟子やパウロによって記されており、どうしてそれが神の言葉なのでしょうか。」
tadaさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。お便りを読ませていただいて、イエス・キリストの言葉だけ赤い文字で印刷されている聖書のことを思い出しました。日本語訳の聖書でそのような体裁で印刷されている聖書はほとんど見かけませんが、英語訳のものにはよく見かけます。一般にレッド・レター・バージョン(Red Letter Version)と呼ばれたりすることもあります。
このレッド・レター・バージョンがいつ誰の手によってはじめて印刷されるようになったのか、その歴史について調べたことがないので解りませんが、そういうニーズがあるだろうということは予想がつきます。何しろイエス・キリストの言葉だけが色分けされているのですから、手っ取り早くキリストの教えを拾い挙げることが出来ます。
もっとも、イエス・キリストの言葉を知りたい、集めたい、という願いは印刷聖書が出来上がって初めて生まれてくるものではありません。例えば1945年にエジプトで発見されたグノーシス派の文書に『トマス福音書』と呼ばれるものがあります。内容は正に「イエスの語録集」そのものですが、教父たちはこれを異端の書として新約聖書正典の中には加えませんでした。
いわゆる正統的な教会によって退けられた文書ですから、それがイエス・キリストの正真正銘の言葉を含んでいるとは思えません。ただ、その内容が正しいか間違っているかは別として、イエスの言葉を一つでも多く文書に残して後世に伝えたいと考える動機はうなずけるものがあります。
もう一つ、学問上の仮説として、Q資料と呼ばれるものがあります。マタイによる福音書とルカによる福音書の著者が、それぞれ参照したのではないかと仮定される共通の文書資料です。Q資料そのものはトマス福音書のように発見されたわけではありませんから、あくまでも仮説に過ぎません。ただ、最初の三つの福音書の成立を説明する時に、ほとんど定説とまで言われる有名な学説です。
わたしはそういう文書があったとしてもおかしくはないと思いますし、当然、イエス・キリストの語録を残しておきたいと思う人間は、現在新約聖書に含まれている四つの福音書が生まれるよりも前にいただろうと思います。
さて、イエス・キリストの語録集があったとして、それだけでは不十分なのは、すぐに想像がつくと思います。どんな人の言葉でも、それがどんな文脈の中で語られたのかが解らなければ、その言葉を正しく理解することは出来ないからです。
そう考えると、語録集ではなくて福音書が必要とされた理由がうまく説明できると思います。そういう意味ではtadaさんのおっしゃるとおり、福音書の内容を吟味、精読する意義は大きいと思います。
ところで、新約聖書は福音書、使徒言行録、種々の書簡、黙示録と並んでいますが、それは成立年代順に並んでいるわけではありません。福音書はもっとも古いとされているマルコ福音書でさえ、書かれたのは初期のパウロ書簡よりもあとのことです。しかも、パウロの書簡も調べていけば、より古い時代の伝承にさかのぼることが出来ます。もちろん、古いといっても書簡が書かれた時代よりもほんの20数年前の伝承です。
具体的に言えば、たとえば、コリントの信徒への手紙一の11章23節以下に記された最後の晩餐についての伝承と、同じ手紙の15章に記された復活についての伝承です。その二つについてパウロは「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」とか「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と語って、これらのことがパウロ以前の伝承にさかのぼるものであることを語っています。
つまり、パウロの手紙に書かれていることは、この二つの例以外にも、キリストやキリストと直接関わった使徒たちの言い伝えと深い係わりがあるということです。
考えても見れば、キリストの十字架と復活から25年も経っていない時代に、パウロがイエス・キリストの教えと違うことを述べたりすることは、ありえないことです。もしそんなことを手紙に書いて諸教会に書き送ったとすれば、生き証人である他の使徒たちから排斥されてしまったでしょう。丁度トマス福音書が正典の仲間入りを果たせなかったように、イエスの教えや使徒の伝承に反することは、伝えることは出来なかったはずです。
ということは、新約聖書の福音書以外の文書も、イエス・キリストの教えを引き継いでいるのであって、イエス・キリストの教えと働きを理解するために欠かすことが出来ない文書と考えることが出来るのです。
ところでキリスト教会が「神の言葉」という時に、それは神が直接語った言葉や、キリストの語った言葉だけに限定されるわけではありません。神がその御旨を伝える特別な啓示活動全体を含めて書き記された啓示の記録である聖書全体が神の言葉なのです。
そういう意味でも新約聖書だけでもなく、その中の福音書だけでもなく、旧約新約両方をあわせて聖書と呼び、これを神の言葉として研究しているのです。
さて、最後に歴史学の研究として福音書を見た場合、どうなのかということについて触れて終わりにしたいと思います。
tadaさんは、「4つの福音書はイエス様が語られ、また働かれた内容を直接記していると考えられますので、その内容を吟味、精読する意義はある」とおっしゃいました。
「意義はある」というのはどういう意味で意義があるということなのでしょうか。神の計画全体の中でのイエス・キリストを知るという意味では、今まで述べてきた理由からいって、四つの福音書だけに絞ってしまったのでは、十分な意義をもった研究とはいえません。
では、歴史上のイエスがどういう活動の中でどういうことを教えたのか、という歴史的な研究を進めるために、研究の対象を4つの福音書に絞ってしまうことはほんとうに意義のあることなのでしょうか。
史的イエスの研究(歴史上の人物としてのイエスの研究)は19世紀から20世紀にかけて、盛んに行なわれました。そして、様式史批評と編集史的研究が出した結論は、福音書の中に記されていることは史的イエスにまでさかのぼることは出来ないと言うものでした。せいぜいさかのぼったとしても、それを伝える教団の生活の場にしかたどり着くことができないというのです。
わたしはこの結論に100%同調できませんが、しかし、福音書が単純に歴史的事実を伝えるだけの書と考えてしまうのは無理があるように思います。
問題は福音書をどのような書物と前提して、どのような方法論を使って歴史のイエスに近づこうとするのか、ということが明確でなければ、福音書だけを切り離して研究したところで、歴史のイエスにたどり着くことは不可能なように思います。
仮にイエスが直接語ったと断言できる言葉が福音書にあるとすれば、少なくとも、それは同時代の誰も言いえない言葉こそ、イエスの言葉だと断言できるでしょう。そうであれば、広く周辺世界の文書と比較してこそ、イエスの言葉に歴史的にたどり着くものです。そうであるとするならば、福音書以外の文書も研究の視野に入れなければ、正しくイエスの言葉を理解することは出来ないのではないかと思うのです。
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