タイトル: 「『耐えられない』試練はない」とは? ハンドルネーム akiさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームakiさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「『耐えられない試練はない』と言われますが、何年もうつで治療を受けている状態で、精神的に強いショックを受けて記憶の一部もなくなり、ついに働けなくなりました。
入院して、覚えている範囲のことを医師に話した時点で『これだけでも十分頑張りすぎ。もっと早く逃げるべきだったと思う。』と言われました。『耐えられない試練はない』と思い、困難に正面から立ち向かいすぎたと言うことでしょう。
うつ状態で記憶の一部がなくなると言うことは、私には『耐えられない試練』だったと思います。それを避ける脱出の道もあったのかもしれませんが、それは今考えてもあまり普通の脱出の道とは言えません。今後は頑張り過ぎないつもりですが『耐えられない試練はない』と言う言葉を、どう受け取って生き直すかそれがつかめません。アドバイスをお願いします。」
akiさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。お便りを読ませていただいて、この何年かの間にakiさんの身に起った苦しい体験のことを思いました。そして、その苦しみが少なからず聖書の言葉と関係していたことを思うと、ほんとに心苦しい思いがします。
さて「耐えられない試練はない」という言葉は、新約聖書コリントの信徒への手紙一の10章13節に出てくる言葉ですが、この言葉は苦しみの中にある人たちにとって、多くの慰めと励ましとを与えてきた言葉ではないかと思います。それはクリスチャンばかりではなく、クリスチャンでない人も、どこでこの言葉を耳にしたのか、この聖書の言葉が心に残って、励まされたという人の話を聴いたことがあります。
この言葉のお陰で励まされた、困難を乗り越えることができたと言う分には、敢えてこの聖書の言葉に意味について取り上げる必要もないことでしょう。しかし、この言葉があるために、かえって苦しい思いをしているとなれば、改めてこの聖書の箇所が言おうとしていることを丁寧にとりあげる必要を感じます。
そもそも、コリントの信徒への手紙一の10章13節でパウロが「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」と書いたのは、どういう文脈の中で、どういう意図をもってそれをしたためたのでしょうか。
有名な言葉というものは、しばしば書かれた本来の意味を離れて、一人歩きしがちなものです。そして有名な言葉ほど、引用する人の意図によって、拡大解釈されたり、場合によっては本来の意図とは違った意味に解釈されるものです。
では、コリントの信徒への手紙一の10章13節がどういう文脈の中で語られているのか、ということを即座に答えることが出来る人がどれくらいいるのか、というと、残念ながら皆無に近いのではないかと思います。
この言葉が出てくる背景を改めて読み直してみると、随分前のところまでさかのぼる必要があることに気がつきます。
まず、直前のところで、パウロは「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と警告しています。少なくとも問題の箇所は、この「倒れないように気をつける」ことと関係していることは明らかです。倒れないように気をつけるというのは、さらにさかのぼって読むと、旧約聖書の民が陥った様々な失敗が具体的に挙げられています。そして、その失敗を受けてパウロは「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」と記しています。
つまり、パウロが問題としているのは、旧約の民イスラエルが約束の地カナンを前にして、様々な失敗のために入ることが出来なかったことを前例として、そのような過ちに再び陥って、神の国に入り損ねることがないようにということです。
では、どうして、その話題になったのかというと、さらにさかのぼってコリントの信徒への手紙一の9章24節を読むと、こう書かれています。
「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」
つまり、パウロはコリントの教会の人たちが皆、脱落することなく、神の国に入ることを願ってこの手紙を書いているということです。もちろん、競技場を走る者は一人しか賞を得ることはできません。しかし、ここでパウロは、救われるのは一人しかいないということを言いたいのではありません。そうではなく、賞を受けるような走り方のことを問題としているのです。
さて、この競技を最後まで走りぬいて、神の国に迎え入れられるために、パウロは旧約時代の民の失敗を悪い例としてあげ、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよいと警告します。
少なくとも、ここまでのところで明らかなことは、パウロが念頭においていることは、救いに関する事柄です。その人が人生を走りぬいて神の国に入るのか、それとも、同じ走るにしても神の国とは関係ない走り方で、人生を走るのか、そういう問題です。
そして、その直後で問題の言葉が出てきます。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
以上の文脈から明らかなことは、コリントの教会に人々に襲う「試練」とは、神の国から引き離してしまうような試練のことを言っているということです。
サタンは手を変え品を変えて、クリスチャンを誘惑し、神の国からふるい落とそうとします。しかし、それがどのよう試練であっても、人間として耐えられないような試練はない、とパウロは言います。
「立っていると思う者」には、「倒れないように気をつけるがよい」と警告しますが、逆に試練に打ち負かされるのではないかと意気消沈する者には、この試練がクリスチャンを振り落とすほどのものではないことを語っているのです。
なぜ、クリスチャンがふるい落とされることがないのか、といえば、それは、クリスチャン自身が試練に頑張るからではなく、神は真実な方だからです。
この「耐えられない試練はない」という言葉は、決して、「試練に耐えられなかったらあなたのせいだ」ということを言っているのではありません。そうではなく、神は最後まであなたを守って神の国に確実に導いてくださる、という励ましなのです。
たとえ病気で挫折することがあっても、職を失うことがあっても、それはわたしたちを神の国から引き離してしまうことにはならないのです。
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