BOX190 2009年10月7日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 終末はいつ来るのか? 長野県 G・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長野県にお住まいのG・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生にお聴きしたいことがあってペンを取りました。
 今、世界情勢は、軍事的脅威や経済破綻、驚異的な環境破壊、一言で言えばお先真っ暗です。聖書のマタイ福音書の教えを読んでいたら、終末の徴が書かれていて、不法がはびこり人々の愛が冷えるとありました。ここだけではなくテモテへの手紙には、世の終わりの時の人々の有様がいろいろ描かれていて、人間の悪が極みにまで達するようなことが書かれています。
 聖書には世の終わりが必ず来るとあります。いつ来るのでしょうか?
 聖書のいう終わりが早いか、温暖化で地球滅亡が早いか、人類は二つの滅びに直面しているように思えてなりません。この先どうなっていくか不安です。」

 G・Yさん、お便りありがとうございました。確かに今の世界の情勢を見ていると、不安の材料が多すぎて、なかなか明るい気持ちになれません。一つ一つが独立した問題と言うならまだしも、それぞれが複雑に絡み合っていて、どこからどう手をつけていいのやら、深い知恵と知識が求められるところです。

 私自身の考えを言えば、現在の軍事的脅威も経済破綻も環境破壊の問題も、直接人類を滅亡へと導くきっかけにはならないように思います。そう思う理由は二つあります。
 一つは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という天の父なる神の恵みと憐みとがあるからです。今までの時代もそうでしたが、神はそう簡単に全宇宙を滅びるままに任せておくようなお方ではありません。
 こういう恵みのことを、神学の用語で「一般恩恵」とか「一般恩寵」と呼んでいます。この一般恩恵に支えられて、人間は自分たちの手によって危険をある程度回避することができるとわたしは信じています。それは決して傲慢にも人類の知恵を過大に評価してそう言っているのではありません。神の恵みと憐みに信頼して、そう予測しているのです。

 もう一つの理由は、人間の貪欲と罪深さが逆に人類の滅亡を回避するという予測からです。人間の貪欲さは計算高くできています。自滅してまで貪欲な追求を止めないほど、人間は愚かではありません。貪欲で罪深い生き方を完全に放棄することはできないとしても、適度に貪欲な思いを満たすことができるように工夫しながら、危険を回避していく悪知恵には長けています。
 このまま行くと世界が滅んでしまうかも知れない、という感覚が多くの人たちの心に働いているうちは、その危険を回避できる知恵もまた生まれてくると予想されます。

 そもそも、世の終わりについて、聖書が語っているところによれば、「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです」(1テサロニケ5:3)。人々が危険を予測できるうちはまだ終わりは来ないと思った方がよさそうです。
 むしろ、人々が世の終わりなどこないと思い始め、貪欲な追求と罪の生活を少しも悔い改めようとしない時こそ、危険なのです。

 しかし、以上のようなことを言ってしまうと、いつまでたっても世の終わりは来ないのではないかという印象を与えてしまうかも知れません。しかし、聖書自身が語っているように終わりの日は必ずやって来ます。
 ペトロがその手紙の中で語っている終末の実現についての言葉に目を留めることはとても大切です。

 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ3:9)

 今の世界情勢を見て、終末の時が近いのではないかと感じるのであれば、そして、終末の時が近いか遠いかは別として、その感覚がわたしたちを悔い改めへと導くように作用し、実際に悔い改めに導かれるならば、それはわたしたちに悔い改めを望む神の忍耐に応えることになるのだと思います。

 それでは改めて「世の終わりはいつ来るのか」と尋ねられれば、「その答えはわからない」としか言いようがありません。世の終わりの日がいつなのかは、父なる神だけが知っていて、天使も子も知らないとイエス・キリストご自身もおっしゃっています(マルコ13:32)。その日がいつ来るかを知ることが大切なのではなく、突然やって来るその日にいつも備えていることが大切なのです。
 イエス・キリストが「目を覚ましていなさい」とおっっしゃっているのはそういうことなのです。その日がいつ来るかを知るために目を覚ましているのではなく、その日がいつ来てもよいように、いつも忠実であること、いつも思慮深くあること、そのことが大切なのです。

 さて、いただいたお便りの中に「この先どうなっていくか不安です」とありました。確かにいつ来るとも分からない世の終わり、しかも、必ずやってくる終末のことを考えると不安な気持ちになるのも当然です。

 けれども、聖書は「世の終わり」という言い方で、その時起る破滅的な異変について語ってはいますが、聖書が語る「世の終わり」は否定的な側面ばかりではありません。終末のときに襲う大きな艱難を、聖書は「産みの苦しみ」であると表現しています(マルコ13:8)。産みの苦しみと言うのは、必ずしもネガティブな苦しみではありません。この苦しみを通して新しく生み出されるものがあるという意味で、希望のない苦しみではありません。聖書が教える終末が、ただ森羅万象の滅亡で終わっているのであれば、何の希望もありません。むしろ聖書が語っているのは罪のない完全な世界の誕生です。聖書の言葉でいえば、「新しい天と新しい地」が姿をあらわすことです。最初の天と最初の地が去っていくことですべてが終わるのではありません(黙示録21:1)。新しい世界が姿をあらわすことで、希望は完成を迎えるのです。聖書を注意深くお読みになると分かると思いますが、聖書はそういう希望を語っているのです。
 特にローマの信徒への手紙8章18節から39節までをじっくりと味わってください。そこでパウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と述べています。さらにパウロは「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とその終末的な確信を述べています。そのように終末の完成に向かって導かれる神がいらっしゃるのですから、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」と自問した後で、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と結論付けています。

 この希望を確信して、忠実で思慮深く目を覚まして、終末に向かって日々を過ごしたいと願います

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