タイトル: 悩みは笑いにまさる? 栃木県 S・Mさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は栃木県にお住まいのS・Mさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「コヘレト7章3節に『悩みは笑いにまさる』とあります。
悩むのは信仰が薄いとか、神様を深く知らないからだとか言われるので、悩んでいると中々言えませんでした。
笑いはガン細胞を消すと言われているのに、その笑いに悩みは勝るとは意外でした。悩みはガン細胞を作っていると思いました。
コヘレト7章3節『悩みは笑いにまさる』…この御言葉の解説をお願いします」
S・Mさん、お便りありがとうございました。「笑いがガン細胞を消す」という話ですが、わたしもそんな話しをどこかで耳にした覚えがあります。笑いがナチュラル・キラー細胞を活性化させることで、ガンに対する免疫力を高めるということだったと思います。
もっとも笑うことでどの程度ナチュラルキラー細胞が活性化され、それがどの程度、ガン細胞に対して威力を発揮するのか、わたし自身は医学の専門家ではありませんから、まったくの受け売りでしかものを言うことができません。
ただ、思い悩んでふさぎこんでいるよりは、何事も笑い飛ばせるくらいの方が、前向きで積極的になれて、病気と闘う気力も出てくるだろうということは、経験から言って素朴に頷けることです。
さて、医学的な話はちょっと脇へおいておくことにして、悩むことの意味について考えてみたいと思います。悩むと一口で言っても、何をどう悩むのかで、同じ「悩む」という言葉でも、その意味内容がまったく違ってきてしまいます。
例えば、結婚式の招待状を受け取ったとします。そこには「平服でお越しください」と書いてあります。はてさて、この言葉を文字通り受け取ってよいものかどうか、どうしたものか、という悩みがあると思います。そんなことは招待した人に電話で確認すれば済むことだと思う人もいるでしょう。いや、そんなことで電話をするなんて、常識外れの人と思われはしないかと余計悩んで頭を抱える人もいるかもしれません。
この程度の悩みは悩みに値しないと、ほとんどの人は思うでしょうし、多少は悩んだとしても、何とか自力で解決してしまうことでしょう。
もし、自力で解決することができずに、このことをいつまでも悩みつづけているとすれば、そして、その悩みが自分の生活に支障をきたす程にまでなるとすれば、その悩み方は決してよい悩み方とはいえないと思います。
しかし、困っている人のために自分に何ができるか、ということで、適切な答えを見出せないために悩むと言う場合はどうでしょう。そういう悩みは誰にでもある悩みとはいえないかもしれません。しかし、その人に向かって、「そんなことは笑って済ませてしまえばよいではないか」とは言えないでしょう。
先ほどの悩みに比べれば、悩みの質が違うと誰もが感じることでしょう
ただ、どちらの悩みの場合も、そのことがらにそもそも気がつかなければ、悩むことそのものがないはずです。悩むと言うことは、あることに気がつかなければ起らないことなのですから、裏を返せば、悩む人と言うのはよく気がつく人だということができるのだと思います。
もっとも、よく気がつく人は必ず悩み多き人なのかというと、それは必ずしもそうではありません。また、そうであってはいけないように思います。
いい悩みと悪い悩みがあるとすれば、それば、結局、その悩みの根本が人間の解決の能力を超えた事柄にかかわっているのか、それとも、人間の能力でどうにか解決することで悩んでいるのか、その違いだと思います。人間の力の及ばないことで悩むのは、いくら悩んだところで、解決の糸口は見出されないのですから、それは悩むだけ無駄なことです。人間的な言葉でいえば、諦めが肝心ということになるのでしょう。
キリスト教的な言葉で言えば、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」(1ペトロ5:7)ということだと思います。人間の能力を超えたことは神におまかせするしかないのです。
しかし、そうは言っても、一番難しいのは、何がわたしたちの能力で解決できることで、何がそうではないのか、その見分け方だと思います。もしかしたら、それが最も大きな悩みの種かもしれません。
そこで、牧師であり神学者であったラインホルド・ニーバーと言う人が残したこんな祈りの言葉を思い出します。
「神よ、変えることのできないものを受けいれる平静さを、変えることのできるものを変える勇気を、そして両者の違いを見分ける知恵を、私たちにお与えください」
わたしたちの悩みは、人間の能力を超えていて変えることのできないことがらをどうにかしようとするときに起る悩みか、あるいは、解決できることなのに、決断する勇気がなくて起きる悩みか、はたまた、その両者を区別できなくて、どうしたらよいか分からずにおこる悩みであるか、どれかだと思います。
もし悩むことに意味があるとすれば、悩むと言う経験を通して、変えることのできないものと、変えることのできるものとを見分ける力を身に着けているのだと思います。こればっかりは、実際に悩むと言うことを通してしか、身につかない事柄であると思います。
さて、長々と語ってしまいましたが、では、コヘレトが言っている「悩みは笑いにまさる」とは、どういう意味でしょうか。
この場合、その言葉が出てくる7章3節だけを見てはいけません。その前後を注意深く読む必要があります。
まず、直前の2節で「弔いの家」と「酒宴の家」とが対比されます。誰しもお葬式に顔を出すのは色々な意味で気が重いものです。お酒を飲んでぱぁっと騒いだ方が気持ちも晴れるような気がします。しかし、コヘレトは「弔いの家に行くのは酒宴の家に行くのにまさる」と言います。そこには人生の終わりについての深い洞察が養われるからです。
直後の4節では「賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」とあります。2節に出てきた「酒宴の家」は「快楽の家」と言い換えられます。そして、愚か者は「酒宴の家」「快楽の家」に向かうと言うのです。
さらに、6節を読むと「愚者の笑いは」とありますから、快楽を選んで酒を飲み、笑いに興じている愚か者の姿を思い描くことができると思います。
それに対比して、賢者は敢えて弔いの家に出向き、そこで人生の最後について考え、人生に様々な苦悩についての思いをめぐらせるのです。
コヘレトが言うのはその愚者の笑いと賢者の悩みです。言い換えれば、悩むことで人生を学んだ方が、快楽に溺れて笑い転げて過ごすより、どれほど有意義かということなのだと思います。
人間の限度を超えたことで悩みすぎることは、決してよい悩み方ではありません。しかし逆に、快楽にだけ目を留めて何も考えずに笑い転げているだけの生き方もまた決してよい笑い方とはいえないのです。コヘレトはそのことにわたしたちの注意を促しているのではないでしょうか。
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