BOX190 2009年9月9日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: ベトザタの池の奇跡について ハンドルネーム・akiさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームakiさんからのご質問です。SNS「ぱじゃぱじゃ」に寄せられたお便りをご紹介します。

 「ヨハネによる福音書の5章のベトザタの池での奇跡について質問します。
 私は病気のため2年半ほど働けない状態が続いています。治療中でようやく明るい兆しは見えてきましたが『いつ頃、良くなるとはまだ言えない』と医師からハッキリ言われています。それで38年間、病で苦しんだベトザタの池の回廊に居た人の話が気になり、改めて聖書を読みました。いつ治るとも言えない病気になってみて、わかりましたが、病から解放されたいと言う気持ちと共に、長い間社会に参加できてないので社会復帰するのが怖いと思うようになりました。治りたいと思っているのに別の一面では怖くて治りたくないのです。イエスさまは、ベトザタの池の回廊に居た人の状況をご存知だったはずです。なのになぜ、ある意味失礼とも思える『良くなりたいか』と言う問いをされたのでしょうか。また素直に『良くなりたい』と言えずに、愚痴ともいいわけとも取れる返事をした人をなぜ奇跡で癒されたのでしょうか。よろしければ、このことについてお話してください。」

 akiさん、いつも番組を聴いていてくださってありがとうございます。また、今回はとても興味あるご質問を寄せてくださって感謝です。

 さて、ご質問は二つありました。一つは38年間癒されることがなかったこの人の事情をすべてご存知であるはずのイエス様が、何故「良くなりたいか」というような、答えが分かりきった質問を敢えてなさったのか。
 もう一つのご質問は、「良くなりたい」とハッキリとした返事をしなかったこの人を何故奇跡で癒されたのか、ということです。

 どちらの質問も、イエス様が今ここにいらっしゃって答えてくだされば、一番ハッキリした答えになることは間違いありません。あるいは、この記事を記したヨハネによる福音書にその答えがハッキリと記されていれば、そもそもakiさんも問い合わせる必要がなかったことでしょう。
 実は質問に答えるわたしにとっても条件は同じです。あくまでも推測でしかお答えすることはできません。

 まず、イエス・キリストがなさる癒しの奇跡の話を調べて見ると、どんな場合にも、癒されたいかどうか、毎回本人の意志を尋ねているわけではありません。もちろん、そうしないのは、ほとんどの場合本人の癒されたいという願いが前提となっているからです。
 ベトザタ池のほとりで38年間癒されることがないまま過ごしてきたこの男の場合も、癒されたいと願う気持ちを疑うことはできません。少なくともこの人がベトザタ池のほとりで過ごすようになったのは、癒しの奇跡が起きると噂されているこの池の評判を耳にしたからでしょう。この池のほとりで過ごしているというだけで、癒されたいと思うこの人の気持ちは十分に表れているはずです。
 もし、そうであるとすれば、なおのこと、イエス・キリストが敢えて「良くなりたいのか」とお尋ねになった理由は腑に落ちないものがあります。
 少なくとも、すべてをご存知であるはずのイエス・キリストには必要のない質問であることは明らかです。そうであるとすれば、この男の答えから、どんなことをわたしたちは知ることができたのでしょうか。あるいは、この男はキリストの質問に答えることで、何を改めて自覚することができたのでしょうか。そういう問いの立てかたの方が正しいのかもしれません。

 この男の答えは、決して真っ直ぐな答えではありませんでした。キリストの質問は「はい」か「いいえ」で答えられるものでしたが、敢えて、「はい」とは言わなかったのです。癒されたいと願いながらも、自分がどうして癒されることがないのか、という理由を答えることで、間接的にキリストの質問に答えるのが精一杯でした。

 その答えというのは、こういうものでした。

 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

 この男の口によって描かれているのは、世知辛い世の中の姿です。この人を助けようと思う人がいないこと、しかも、38年間、自分に関心を抱いてくれる人がいなかったこと。「病人相憐れむ」という言葉があっても、実際には病人たりとも、われ先に自分の幸せに飛びつくのが世の中だと言うことです。
 イエス・キリストの質問はそういう世の中の罪深い現実を、この男の口から語らせています。

 また、この人自身も、自分でそのことを口にしてみて、自分がベトザタ池のほとりにきたときのことを思い出すことができたのではないかと思うのです。
 ここへやって来たときには、病気が癒される希望でいっぱいだったはずです。ここへやって来たばかりの頃に、イエス・キリストから同じ質問をされたなら、間髪入れずに「主よ、もちろんです」と答えたはずです。
 1年たっても、2年たっても、その癒されたいと思う気持ちは変わらなかったことでしょう。しかし、5年がたち、10年が過ぎるうちに、「今度こそは」という思いも薄れ、むしろ、「何故、自分が一番に池に入ることができないのか」という思いが気持ちの半分以上を占めるようになったのではないでしょうか。そして、その思いも、やがては、水が動く時に必ずしも思わなくなったのかもしれません。すっかり希望も失って、水が動いても昔のようにわれ先に行こうとする気力も失せていたかもしれません。
 イエス・キリストの質問は、この男が抱いていた希望をもう一度思い出させたのかもしれません。

 イエス・キリストが「良くなりたいのか」とこの男に尋ねた本当の理由はわかりませんが、少なくとも、その理由を考えることで、この人のことや、自分を含めた世知辛い世の中の姿を思いめぐらせることができました。

 さて、もう一つのご質問は、「良くなりたい」とハッキリとした返事をしなかったこの人を何故イエス・キリストは奇跡で癒されたのか、ということです。

 確かに、「はい」か「いいえ」というハッキリした答えではありませんでしたが、先ほど見てきたとおり、癒されたいと言う思いは確かだと思います。ただ、「他にも癒しを必要とした人がいただろうに、何故この人だけが癒していただけたのか?」となると、わたしには答えがわかりません。ただ、イエス・キリストが他の病人たちに無関心であったのではないことは確かだと思います。

 と言うのは、このヨハネ福音書5章の話は、安息日論争に発展します。つまり、その当時のユダヤ人にとっては、病人の癒しよりも安息日の厳守の方が大切だったのです。しかし、安息日を破ったことで詰め寄るユダヤ人に対して、イエス・キリストはこうおっしゃったのです。

 「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5:17)

 安息日は天地創造の業が完成したということが前提です。しかし、罪の世界は創造の完成という前提が破れています。だからこそ、イエス・キリストは今もなお創造の完成に向かって救いの業を休まないのです。ベトザタ池で癒された人は、救いのために今も働きつづけるイエス・キリストを示す一つの具体的な例なのです。これが最後なのではなく、これからも救いのために働いて下さるイエス・キリストの決意を表しているのではないでしょうか。

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