タイトル: 洗礼は受けたいけれど… ハンドルネーム・ただの異邦人さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ただの異邦人さんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「随分前になりますが、洗礼を受けたいと思い教会に通っていました。個別に学びの時間も取っていただいたのですが、深夜残業や日曜の休日出勤がある私の職業を快く思われない教会でしたので、随分悩みましたが通うのを止めました。今でも洗礼を受けたい気持ちに変わりはありませんし、キリストは信じます。
現在インターネットで複数のキリストを信じる人や信じたいと思っている人のコミュニティーに参加していますが、一見とても信仰深い発言をされる方の中には「それは理屈だけなのでは?生きて働くキリストの愛(人の痛みにそっと寄り添う愛)を感じないんですけど...」と感じる方がいます。逆にキリスト教に興味もなく、黙々と深夜や日曜に働いている人の中にも、他人の痛みに敏感で思いやり深くて頭が下がる方も数多くいます。
礼拝説教も聴きたいし、賛美歌も歌いたいけれど、インターネットと違って、教会で直接人と接すると臨機応変に心の距離を取ることができなければ信仰のない私は人の言葉に翻弄されて、精神的に追い込まれる気がします。
家族の反対を押し切り、日曜に働いてくださる方達で成り立っている公共交通機関を使って教会に集い、さらに人と交わることの意義を教えていただけないでしょうか。」
ただの異邦人さん、お便りありがとうございました。似たようなご質問は過去にも何度か取り上げたことあります。「ふくいんのなみ」のホームページをご覧になれるのでしたら、トップページのHP内検索で、「安息日」や「教会」などのキーワードで捜してみてください。わたしがざっと捜した限りでは、「安息日と労働」の問題に関しては2000年11月1日、2003年9月24日、2004年9月29日などのBOX190でその問題を取り上げています。また、「教会に行く意義」については2001年8月1日、2006年3月1日、2008年2月6日放送のBOX190が似たような問題を取り上げていると思います。
今までの繰り返しになってしまうかもしれませんが、改めてこの問題について考えてみたいと思います。
まず、こう言う問題を取り上げるときには、原則は何なのか、そこをしっかり抑えておく必要があると思います。というのもたくさんの例外を掲げて、それらの例外をすべて認めた上で何ができるかを考えるとすれば、結局は何もできないと言うことになってしまうからです。
そこで最初の出発点はどこにあるのかということから考えてみたいと思います。それは、まことの神を礼拝するということが、人間の側が思いついたことではなく、神が人間をご自身に向けてお造りになったということに、そもそもの出発点があるということです。
もし、アダムとエバの堕落がなければ、人間は今も自由に神を礼拝し、神との交わりを楽しむことができたはずです。
人類に罪が入ってからは、二つの変化が起りました。一つは人の心が正しく神に向かっていないという現実です。それによって、神ではないものを神と思い、違うものを崇めて礼拝するという事態が人類に入り込んで来ました。もう一つの変化は、まことの神に対する意識的な、あるいは無意識のうちの敵対関係です。まことの神の命じることを疑い、それに逆らおうとする心の変化です。
しかし、それにも関わらず神は礼拝の機会を罪人である人間に用意してくださっているのです。かつてはイエスラエル民族によって、今はイエス・キリストを通して民族を越えた神の民によってです。
こうした神を第一と崇める生き方は、言うまでもなく安息日や日曜日に限定されているわけではありません。ただ、神は日々の礼拝に加えて、特定の日を定めて神の民が集まる礼拝の日とされました。それがモーセの十戒の第四戒に定められている安息日です。ただし、キリスト教会はある時期からユダヤ教の安息日と決別して、主イエス・キリストが復活された日を公の礼拝の日と定めたようです。残念ながら公の礼拝の日の変更が、人間の考えに基づくものなのか、神のご意志によるものなのか、決定的な証拠を聖書の中に見出すことはできません。ただ、ユダヤ教の安息日からキリスト教の主の日に、公的な礼拝の日が変わる過程の中に神の御手の働きがあったとわたしは信じています。いずれにしても、毎日が礼拝の日であり、とくに週のうちの一日が公的な礼拝の日であることは、神がわたしたちに求めていらっしゃることです。
以上の原則を踏まえた上で、例外について考えて見る必要があると思います。しかし、すべての例外について、ここで取り上げるわけには行きませんから、ただの異邦人さんの抱えていらっしゃる問題にだけ焦点をあてて考えてみたいと思います。
まず、お便りの中にこう記されていました。
「教会で直接人と接すると臨機応変に心の距離を取ることができなければ信仰のない私は人の言葉に翻弄されて、精神的に追い込まれる気がします。」
具体的な詳しい状況は分かりませんが、もし、礼拝に出ることが、明らかに生活に支障をきたすような精神的な圧迫をもたらすのだとすれば、そして、どのようなことをしても精神的な圧迫から逃れる道がないのだとすれば、率直に言ってこれはもはや無理をして教会に行けるような状態ではないと思います。言ってみれば、事故で重症を負った怪我人に、それでも礼拝に来なさいというくらい無茶なことです。
ただ、事故で重症を負った人は一目瞭然ですから、そんな人に向かって礼拝に来るように勧める人はいませんし、礼拝を休んだからといって非難する人もいません。ところが、ある人が精神的にどれほど重症を負っているのかは、一目瞭然と言うわけではありません。そのような方とどう接していくのかは、結局のところ、教会の側の対処の問題となるのではないかと思います。
また、お便りはこう締めくくられていました。
「家族の反対を押し切り、日曜に働いてくださる方達で成り立っている公共交通機関を使って教会に集い、さらに人と交わることの意義を教えていただけないでしょうか。」
この点に関しても、先ほどのことと切り離して考えるわけには行きません。精神的に追い詰められるような状態を見て、ご家族の方が反対されるのは当たり前のことだと思います。そのようなことを知っていながら、それでも礼拝に来ることを勧めるだけの意義を、わたしは思いつきません。
誤解のないように言いますが、一般的な意味で「教会に集い、さらに人と交わることの意義」についてならば、今までの放送の中でも何度か述べてきたとおりです。しかし、そのことは今のただの異邦人さんにとって最も中心的な問題ではないように思いました。
最後になりましたが、「洗礼は受けたいけれど…」という思いが今なおおありでしたら、ありのままのただの異邦人さんを受け入れてくれる教会が名乗りをあげてくださることを心から祈ります。ただの異邦人さんが今まで接してこられた教会やクリスチャンの方たちとは違う考えの方たちが、きっと状況を理解して受け止めて下さるに違いないと思います。
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