タイトル: 聖書は利息を禁止してるのでは? ハンドルネーム・ハナさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ハナさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「素朴な疑問ですがよろしくお願いします。
聖書では利息を取った金貸しは禁じられていると思いますが、現代社会では法外に高い利息でない限り、利息を取ることは当たり前と考えられています。
たとえば、教会堂を建てる時に足りない資金を銀行から借りるとします。そのとき、利子を払って返済するのは当然のことだと思って、誰もそのことを疑いません。
あるいは、教会堂を建てる時に、教会債を発行して、教会員からお金を借りる時もあると思います。その時お金を貸した教会員は利息を受け取るのが当然と考えて、何も疑うことがありません。
あるいはキリスト教主義の団体が何かのファンドを持っていることがあります。ファンドは銀行に預けられて、その利息が活動を支えると言うことがあります。その場合にも、そうした利息の受け取りがいけないことだという声を聞いたことがありません。
こうして見てくると、キリスト教では利息の受け取りはもはや異論の余地のない当然のことがらと考えられているということでしょうか。
その場合、聖書の教えとどのように調和して理解すべきなのでしょうか。よろしくお願いします。」
ハナさん、お便りありがとうございました。とても興味あるご質問ですが、改めて問われると、中々答えることが難しい問題のように思いました。
半分は純粋に聖書の問題として扱うことができると思います。しかし、残りの半分は経済の話とどうしても切り離して扱うことができない問題のように思います。前半に関してはある程度自信をもってお答えできますが、経済的な話になると、正直なところ私自身の手には負えない問題です。中途半端な回答になってしまうかもしれませんが、わたしにできる範囲でお答えしたいと思います。
一般的によく言われていることは、キリスト教会では中世の時代まで、利息を取った貸し借りは聖書に反すると考えられていたということです。例えば『神学大全』を著したトマス・アクィナスは利息を受け取ることは「それ自体不正なこと」と考えていました(第2部問78)。それに対して、宗教改革者のカルヴァンは利息を取る金銭の貸し借りの正当性を認めたと言われています。もっとも、カルヴァン以前の時代に、利息について肯定的な見解を持っていたキリスト教徒の学者がいなかったのかというと、そうでもないようです。スペインのサマランカ大学を中心としたサマランカ学派の学者の中には利息を養護する学者もいたそうです。このあたりの議論に関しては、わたしはほとんど自分で調べたことがありませんので、これくらいにしておきます。
さて、そもそも聖書は利息について何と言っているのでしょうか。
旧約聖書の「律法」の中には利息についての規定があります。ハナさんがご質問の中で言及している聖書の教えとはそのことを言っているのだろうと思います。
先ずは、コメント抜きで、その箇所を三つ引用することにします。最初に出エジプト記22章24節です。
「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。」
次はレビ記25章35〜37節です。
もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。
そして、申命記23章20〜21節です。
同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。
この三つの箇所を読んで分かることは、旧約聖書では「同胞」と「外国人」を区別しているということです。外国人への貸付では利息を取ることが許されているのですから、少なくとも利息そのものが罪であるという考えではないようです。利息そのものが罪であるとすれば、外国人に対しても利息を取った貸付は禁止されていたはずです。
もう一つ、これらの箇所から分かることは、弱者に対する慈善的要素が強いと言うことです。レビ記が規定しているのは、貧しい同胞に対する規定です。裏を返せば、貧しくない人にお金を貸すときは利息をとってもよい、と読めなくもありません。その場合には、申命記23章20節が言っている「同胞」とは「貧しい同胞」のことが前提になっているということになります。もっとも、貧しくない人がお金を借りるということがあったのかどうかと言うことを思うと、レビ記の規定はお金を借りるような一般的な状況で、利息を禁止していると考えることができるかもしれません。
出エジプト記の規定も弱者を保護することが規定の背後にあるように思われます。その場合、「高利貸しのようになってはならない」とありますから、「高利」でなければ利息を取ってもよいと解釈できなくもありません。ただし、高利でない貸付と言うものが当時あったのかということを考えると、これもまた金銭を貸し付けるときに利息を取ることを一般的に禁止している規定と考えることができるでしょう。
そうすると、利息をとることは旧約聖書の律法では禁じられていると言うことになります。ただし、外国人への利息は認められていましたから、利息そのものを罪として禁じていたとは思われません。しかも、同胞に対する利息を禁じているのは、慈善的な理由からですから、利息の伴うあらゆる場合の金銭の貸し付けを将来にわたって永久的に禁じていると考える必要はないでしょう。
では、新約聖書ではどうでしょうか。イエス・キリストの言葉から二つだけ引用します。
ルカによる福音書6章34節には「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」とあります。
文字通りに理解すれば、利息を取るどころか、返してもらうことを当てにして貸すことも禁止しているようにも読めます。
しかし、マタイによる福音書の「タラントのたとえ」では、預かった一タラントをそのまま返そうとした僕に対して主人は、「わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」といっています。
これは、明らかに利息を取ることが日常化している社会を前提としています。
この二つの箇所はどちらも利息そのものを扱った箇所ではありませんから、そこからキリスト教と利息についての結論を導き出してくるのは危険でしょう。
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