タイトル: 金持ちとラザロの話は実話ですか? 愛知県 T・Fさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのT・Fさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「ルカによる福音書についての質問です。ルカによる福音書の16章に『金持ちとラザロ』と呼ばれる話がイエス様の口によって語られています。
この話はたとえ話と理解してよいのでしょうか、それとも実話と考えるべきなのでしょうか。また、ここで描かれている死後の世界は誰にでも訪れる一般的な死後の世界を描いたものなのでしょうか。それとも、これはあくまでもたとえ話であって、描かれている死後の世界は、たとえ話の教えのポイントにそった描写に過ぎないのでしょうか。つまり、描かれた世界を文字通りに受け取る必要はないと考えるべきなのでしょうか。
よろしくお願いします。」
T・Fさん、お便りありがとうございました。「金持ちとラザロ」の話はルカによる福音書16章19節以下に出てくる話ですが、確かにルカ福音書自身は、この話をイエス・キリストがお語りになったたとえ話であるとはどこにも記してはいません。
新共同訳聖書では小見出しが印刷されていますが、「〜のたとえ」というタイトルが記されたものがあります。たとえば16章の前半には「『不正な管理人』のたとえ」と言う見出しがついています。しかし、「金持ちとラザロ」の話に関しては「『金持ちとラザロ』のたとえ」とは記されていません。それは、新共同訳の翻訳者たちが「金持ちとラザロ」の話をたとえ話と理解しなかったということを意味しているのでしょうか。もし、そうだとしたら、何か明確な根拠があってのことなのでしょうか。
まずはルカによる福音書だけに限ってざっと見てみると、「〜のたとえ」という小見出しがついている箇所は全部で15箇所ほど出てきます。たとえば、8章4節以下には「『種を蒔く人』のたとえ」という小見出しが着いています。確かにその箇所は「イエスはたとえを用いてお話になった」とありますから「〜のたとえ」と呼ばれるのは当然でしょう。
しかし、「〜のたとえ」という小見出しがついているところはすべて、「イエスはたとえを用いてお話になった」という説明の言葉が前後に出てくるかというと必ずしもそうではありません。例えば8章16節以下には「『ともし火』のたとえ」とタイトルがついていますが、特に「イエスはたとえを用いてお話になった」という前置きがあるわけではありません。もっとも8章の前半が「『種を蒔く人』のたとえ」ですから、その流れの中で語られた言葉は「たとえ」と考えることができるということなのでしょう。
同じように、15章は有名な三つのたとえ話が出てきますが、それぞれに「〜のたとえ」と小見出しがついています。しかし、「たとえを話された」と言われているのは最初の「『見失った羊』のたとえ」についてだけです。後に続く「『なくした銀貨』のたとえ」も「『放蕩息子』のたとえ」もこれがたとえ話であるとはどこにもしるされてはいませんが、同じ話の流れの中ですから、いちいち断らなくても実話ではなくたとえ話なのでしょう。
では、有名な「『善きサマリア人』のたとえ」はどうでしょう。新共同訳聖書の見出しには「善いサマリア人」としか書いてありませんし、本文でも「イエスはたとえを用いて答えられた」と書いてもありません。そうかと言って、この話が実話であるとも思えません。
様々なケースに関して例を挙げればきりがないのですが、新共同訳聖書の小見出しはもともと聖書の本文ではありませんし、そこに記されていることが「たとえ話」であるかどうかを厳密に区別して表題をつけているわけでもなさそうです。
では、小見出しにとらわれずに、16章19節以下の「金持ちとラザロ」の話を読んでみたらどうでしょう。15章から始まる一連の話の流れから考えると、「放蕩息子のたとえ」も16章1節以下の「不正な管理人のたとえ」も、そして、それに続く「金持ちとラザロの話」も、どれも「たとえを語られた」という説明は本文のどこにもありませんが、一連のたとえ話だと考えることができると思います。「金持ちとラザロの話」だけがたとえ話ではなく実話であるという明確な区別があるとは思えません。
たしかに、たとえ話の特徴は、登場人物たちが「ある人」であったり「ある金持ち」であったり漠然としているものです。人物名が固有名詞で出てくるということはほとんどありません。そういう意味からすると「ラザロ」という固有名詞が出てくるのは、この話が単なるたとえ話ではなく、実話をもとに作られたと思わせるかも知れません。
しかし、このたとえ話の中心人物はラザロではなく、金持ちの方です。しかも、中心の金持ちの方には、名前がなく、「『不正な管理人』のたとえ」と同じように名前のない「ある金持ち」に過ぎません。
15章から16章にかけてたとえ話で語るという一連の話の流れからも、また、中心の登場人物を「ある」という曖昧な表現でしか表さない点から言っても、「金持ちとラザロ」の話はたとえ話と考えてよいでしょう。
では、そこで語られる死後の世界の描写はリアルな世界なのでしょうか。つまり、一方は宴が催される天上の世界で、そこにはアブラハムも同席しています。他方の世界は炎の中で悶え苦しむ陰府の世界です。そして両者の間を深い淵が隔てていると言うのです。
もし、この話がたとえ話であるとすれば、そこに描かれる描写のすべてがリアルな世界である必要は、必ずしもあるわけではありません。あくまでもこのたとえ話が教えようとしている中心は、今をどう生きるのかというわたしたちの責任の問題です。この世での責任ある富の使いかたにわたしたちの注意を向けさせるための教えであって、俗に言う「天国と地獄」の様子を伝えるためのものではありません。しかも、このたとえ話で強調されているのは、富の使い方は既に律法と預言書に記されていると言うことです。従って、責任を果たさなかったことに関しての弁解はどんな意味でも通用しないと言うことです。
死後の世界についての興味は、わたしたち人間にとっては知らない世界だけに尽きることはないでしょう。
しかし、イエス・キリストがこのたとえ話をお語りになったのは、そういう死後の世界を知らせるためではなかったのです。もし、そうだとすれば、このたとえ話に出てくる金持ちのリクエストに従って、陰府の世界から使者を遣わして知らしめればよいだけです。
このたとえ話の中心点は、今を正しく生きる道は既に聖書によって証されているのですから、それに真摯に耳を傾けて生きるようにということなのです。ですから、この箇所から死後の世界についてあれこれ詮索や空想を広げるとすれば、それこそ、イエス・キリストがこのたとえ話をお語りになった意図からそれてしまうことになってしまうのです。たとえ話が語られる目的以上に、そこから何かを引き出そうとする読み方が、聖書の教えを知らず知らずのうちにあらぬ方向へゆがめてしまうのではないでしょうか。
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