タイトル: 何故カインの献げ物は退けられた? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
創世記にカインとアベルの話があります。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となり、神にカインは土の実りを献げ、アベルは羊の初子を献げました。そのとき、神はアベルとその献げ物に目を留めましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。そして、カインは怒って弟アベルを襲って殺しました。人類初めての『殺人』と言われています。そこで、質問ですが、神はなぜ、アベルの献げ物に目を留められ、カインの献げ物には目を留められなかったのでしょうか。」
tadaさん、いつも番組を聴いてくだり、たくさんのご質問をお寄せくださってありがとうございます。今回は創世記4章に出てくるカインとアベルの献げ物にまつわるご質問です。
まずは問題の箇所を何のコメントも加えないで、そのまま読んでみたいと思います。創世記4章1節から8節までです。新共同訳聖書でお読みします。
「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。』
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」
さて、この箇所を読む限り、主なる神がなぜカインとその献げ物を退け、アベルとその献げ物を受け入れられたのか、明白な理由が述べられてはいません。そこで、昔からこの箇所に関しては、様々な説が述べられて来ました。
その説を大きく分けると二つあります。一つは創世記の本文にはその理由が明白に記されてはいないということで、その理由を聖書本文から離れた周辺的、背景的な事柄に求める説と、もう一つは、創世記本文には明白な理由が述べられてはいないものの、それが本文を詳細に読むときに推測することができるとする説です。
周辺的な事柄に理由を求める説の代表的な説には、こんな例があります。それはアベルの献げ物が遊牧生活に根ざした動物犠牲であるのに対して、カインが献げた献げ物は農耕生活に由来する献げ物であったというところから、聖書の神は遊牧民族の神であるので、農耕生活に根ざした異教の犠牲を退けられた、とする説です。
しかし、そもそも聖書の神が遊牧民族の神であるという前提そのものが正しいと言えるのかどうか、その点が一番大きな問題です。確かにイスラエル民族が農耕生活を送るようになったのは、カナンに定住するようになってからでしょうから、まずは遊牧民族の神であったとするのは一見もっともらしく聞こえます。けれども、創世記のこの箇所では、まだアダムの一家しかいない時代ですから、そこに後の時代の遊牧民族と農耕民族の宗教の違いを読み込むのはどうかと思います。
仮に、主張のとおり、聖書の神が遊牧民族の神であるとしても、その同じ聖書には、農産物の献げ物についても規定があるのですから、遊牧民族の神か農耕民族の神かという違いに、カインの献げ物が退けられた理由を求めることには無理があります。
もう一つ周辺的・背景的な事柄に理由を見出す説の代表的な例は、一方が血を流す動物犠牲であるのに対し、他方が血を流さない農産物の献げ物であったからとするものです。
なるほど、ヘブライ人への手紙9章22節には「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と記されていますが、しかし、カインとアベルの献げたものは、罪の赦しのための犠牲ではありませんでした。しかも、そのような規定が律法に定められたのはのちの時代のことですから、そうした違いをカインとアベルの話に読み込むのは、正しい聖書の読み方とはいえません。
そこで、カインとアベルの話を記した聖書本文から離れたところにその理由を求めるのではなく、聖書本文そのものをもう一度読み直して、そこにカインが退けられた理由を示すヒントがないか確かめてみたいと思います。
まず、一つ確実に言えることは、聖書を読むわたしたちには、その理由が明確に示されてはいないとしても、神とカインとの間ではその理由が分かっていたと言うことです。
それは、創世記4章7節に記された神がカインに語った次のような言葉からうかがい知ることができます。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
カインが怒ることも、カインが顔を伏せて神を直視できないことも、カイン自身に問題があることを神は指摘しています。「もし正しいのなら」というのは、カインに非があることを前提とした言い方です。
これは決して神の側の一方的な言いがかりではありません。反論できないカイン自身の沈黙が、神のおっしゃっていることの正しさを暗示しています。
では、どこにカインの問題があったのでしょうか。それぞれが献げ物を供える様子を記した聖書の言葉をもう一度見てみましょう。
カインについては、こう記されています。
「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」
それに対して、アベルについてはこう記されています。
「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」
ちょっと読んだだけでは、献げ物の種類以外の違いがわからないかもしれません。しかし、注意深く読むと、アベルの方は数ある羊の中から最もふさわしいと思う献げ物を選んで献げている様子がうかがわれます。まず「初子」の中から献げ物を選び、しかも、「肥えた」ものを持ってきたのです。
それに対して、カインの献げ物は単に土の実りの中から持って来たとしか思えない描き方です。最上のものでもなければ、初なりのものであるとも記されていません。そこには献げ物に対する思慮が欠けています。
つまり、神が見ていらっしゃったのは、農産物か畜産物かという違いではありません。献げ物に表れたそれを献げる人の心を見ていらっしゃったのです。そうであればこそ、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と記されているのです。受け入れられたのは「アベルの献げ物だけ」ではなく「アベル自身とその献げ物」です。退けられたのは「カインの献げ物だけ」ではなく「カイン自身とその献げ物」なのです。
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