タイトル: 安息日について 愛知県 Five Ilandさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのFive Ilandさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、大変お久しぶりです。ルカの記したパウロの伝道旅行記、興味深く読ませていただきました。感謝です。
さて、質問をさせてください。安息日ってなんですか。この質問には大きな理由があります。是非番組で取り上げいただきたいと思います。」
Five Ilandさん、お久しぶりです。お便りありがとうございました。安息日についてのご質問は、今までにも何度か番組の中で取り上げたことがあるかと思います。ホームページ「ふくいんのなみ」をご覧いただける方は、トップページにあるサイト内検索で「BOX190 安息日」で検索してみてください。過去の原稿をご覧に慣れると思います。
Five Ilandさんが安息日について番組で取り上げて欲しいとお思いになったのには大きな理由があるそうですが、それは結局のところ、安息日の過ごし方についてと言うことではないかと思います。
もちろん、その前に「キリスト教にとっての安息日とは?」という問題があります。これも何度か番組で取り上げたことがあるかもしれません。
安息日というのは旧約聖書の説明によれば、神が天地万物をお造りになって、七日目に休まれたことに由来する日です(創世記2:1-3)。そして、十戒の第四戒は安息日の規定として、安息日を聖別して、何であれ仕事をしてはならないと定められています(出エジプト20:8-11)。それでユダヤ教ではこの安息日は会堂で礼拝を守り、普段の日にはすることが許される仕事もこの日にはしないとして来ました。もちろん、何が仕事に当るのか、それはそれで細かな規定がユダヤ教にはありました。
キリスト教会が安息日をどう考えたのか、その足取りを正確にたどることは難しいのですが、少なくとも弟子たちは初めの頃安息日には会堂に出入りしていたようです(使徒言行録13:14、17:2、18:4)。もっとも、礼拝を守るためなのか、それともキリスト教を伝道するために会堂に出入りしたのか、あるいは両方なのかはっきりはしません。
それと同時に、教会はイエス・キリストが復活した日曜日にも集会を守っていました。もっとも聖書の中に教会が週の初めの日に集まっていたことを物語る証拠は使徒言行録20章7節とコリントの信徒への手紙一の16章2節だけしかありません。ただ使徒言行録の方は定期的な集会だったのか、それともたまたまパウロの送別会が日曜日にもたれたのか、断定することはできません。コリントの手紙の方も、募金が毎週日曜日の礼拝の中で集められたという意味なのか、それとも単に家で各自が週の初めに募金を貯めておくようにといっているのか断定はできません。
ただ、旧約聖書とは違った意味での「主の日」という言葉が使われ始め(黙示録1:10)、「安息日」はやがて来るはずのものの影に過ぎず、本体はキリストであるという考えがはっきり教えられるようになったことを考えると(コロサイ2:16-17)、一世紀の終わりまでには、ユダヤ教の安息日と決別して、週の最初の日に「主の日」としてキリスト教の礼拝が守られるようになったのではないかと思います。
キリスト教会がユダヤ教から破門されて、会堂に出入りできなくなってからは、ユダヤ教の「安息日」とキリスト教の「主の日」ははっきりと区別されるようになったのではないかと思います。
そうすると、クリスチャンにとって、十戒の第四戒でいわれている「安息日」の厳守は、名前と曜日を変えて、そのまま主の日の礼拝に当てはめて考えることができるのでしょうか。それとも、安息日の掟からクリスチャンは完全に解放されているのでしょうか。
確かにユダヤ教の安息日とは違う曜日、違う名前でキリスト教会が礼拝を守るようになった時点で、ユダヤ教の安息日と何らかの決別があったことは確かでしょう。キリストの復活という大きな出来事を体験したからこそ、安息日に対する理解が変わり、安息日の過ごし方も変わったのです。つまり、もはや土曜日を安息日として過ごさなくなったのです。
しかし、礼拝を守る日の過ごし方についていえば、安息日の伝統の一部はキリスト教会にも受け継がれていることは否めません。もちろん、その場合の一日の過ごし方は、「礼拝」の方に重点があるのであって、「仕事をしない」ということに重点がおかれているわけではありません。したがって、イエス・キリストの時代のユダヤ人のように安息日についての事細かな規定をすべて主の日の礼拝のあり方に適用させるということことはありません。
むしろ大切にしていることは、主の日がキリストが復活されたことを記念する日であること、つまり、神の救いの業がいっそう鮮明になったことを覚える日なのですから、救い主である神をほめたたえ、この神を礼拝することの方により比重が置かれているのです。
そこで、キリスト教会にとっての安息日とは何かということを考えるならば、曜日としての安息日はもはやクリスチャンを拘束することはありません。しかし、神を礼拝する日としての安息日は、主の日の礼拝の中に受け継がれています。しかも、神の救いの業は旧約時代のときよりも、イエス・キリストの復活によっていっそう明らかになったのですから、礼拝を守る日としての主の日の過ごし方は、旧約時代に勝って救いの神を礼拝する日なのです。
問題はこの大切な要素を一番に強調することを忘れて、日曜日には学校や仕事を休むことだけを、安息日の厳粛な守り方であるかのように教え始めることにあります。
主の日の大切さそのものを教えることなしに、この日に勉強やクラブ活動や仕事を休んで教会に来ることだけを強調したとすれば、それは形式的な主の日の過ごし方を奨励してしまう危険があります。
それと同じくらい危険な落とし穴は、例外から出発して物事を考えることです。
確かに十戒の四戒について解説した様々な文書の中には、この日の労働を戒めると共に、例外的なゆるされる仕事についても記されています。何がこの日にも許されることなのかという例外から出発して、主の日の過ごし方を考えるとすれば、それはけっして正しい方向性を示すことができません。むしろ逆で、安息日としての主の日の大原則が明らかに理解されればこそ、例外についての正しい理解も得られるのです。
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