タイトル: 渇きとは? 愛知県 S・Mさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのS・Mさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「ヨハネ福音書4章にサマリアの女とイエス・キリストの会話が出ていますが、そこでキリストが『わたしが与える水を飲む者は決して渇かない』と言っています。
この場合、その水によって癒される渇きとはどんな渇きのことをいっているのでしょうか。もちろん、会話のきっかけとなった文字通りの喉の渇きのことではないことは分かります。
では、それを魂の渇きと呼んでよいのでしょうか。
もしそうだとして、魂の渇きとはいったい何なのでしょうか。
よく耳にすることですが、人間はこの魂の渇きを感じて、その渇きを癒すために、違うものでそれを満たそうとしているということです。たとえば、権力や名誉であったり、物欲や金銭欲や性欲であったり、そういうものを満たすことで、魂の渇きをごまかしているのだと、耳にします。
では、逆にキリストの与える水をいただくときには、力や金銭や、そうしたものへの渇きもなくなるということでしょうか。
お答え、よろしくお願いします。」
S・Mさん、お便りありがとうございました。「渇き」というキーワードを中心に展開して下さった、様々な洞察を興味深く読ませていただきました。
確かに、ヨハネによる福音書に記された「渇き」が具体的に何を意味するのかというのは、一見単純な真理のように思われますが、ゆっくり目を通してみると、そう簡単ではないようにも感じられます。
普通、「渇き」といえば、文字通りには「喉の渇き」のことを指しているのは言うまでもありません。お便りの中でもご指摘があったとおり、サマリアの女との会話は、喉の渇きを潤すために、イエス・キリストがサマリアの女から井戸の水を所望したことがきっかけで始まります。そこまでのやり取りは、文字通りの「渇き」を巡っての会話であり、その喉の渇きは井戸の「水」で解決できるものでした。
ところが、「渇き」という言葉には文字通りの「喉の渇き」のほかに、何か物足りなさを感じて、それを満たそうとしている気持ちを表現する時にも用いられます。たとえば、キリストの有名な言葉、「義に飢え渇く人たちは幸いである」という表現は、まさに比ゆ的な意味での表現です。
さて、サマリアの女とイエス・キリストの会話を追っていくと、文字通りの「渇き」から比ゆ的な表現としての「渇き」に話の内容が移る前に、「水」についてのテーマが一枚絡んできます。
イエス・キリストはご自分が与える「生きた水」のことを語りだします。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(ヨハネ4:10)
もちろん、「生きた水」という表現自体は必ずしも比ゆ的な意味でだけ用いられるわけではありません。ヘブライ語の「生きた水」という言い方は、水溜りのような水に対して、泉や流れのように淀むことのない水を「生きた水」と表現したからです。
ですから、最初この言葉を耳にしたサマリアの女の反応はとてもちぐはぐなものになっています。
しかし、その思い違いを訂正して、イエス・キリストは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」、そういう「生きた水」のことを話しているのだと指摘します(ヨハネ4:14)。
では、その「生きた水」とは具体的に何を指すのか、ということはそれ以上、詳しくは取り上げられてはいません。ただ、「もしあなたが、神の賜物を知っており」と述べて、それとなく「生きた水」が「神の賜物」と関係していることをほのめかしているだけです。
ヨハネによる福音書をもう少し読み進めると、先ほどの言葉と大変欲似た言葉が出てきます。ヨハネ福音書の7章37節38節です。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
そして、そのイエスの言葉に続けて、ヨハネ福音書はこの言葉を解説してこう述べています。
「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。」
つまり、イエスが与える水とは「聖霊」のことであるということなのです。
そこから逆に「渇き」のことを考えるとすれば、「聖霊への渇望」または「聖霊によって癒される渇望」ということがここでいう「渇き」の正体であると考えることができるでしょう。
サマリアの女との会話をさらに読み進んでいくと、礼拝を巡る議論に発展します。イエス・キリストは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」とおっしゃってから、さらに「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と加えています。
このイエス・キリストの礼拝をめぐる言葉は、イエスが与える生きた水である聖霊と無関係ではありません。真の神を正しく求め、正しく礼拝することと聖霊とは密接に結びついているのです。
さて、このような「聖霊」だけが満たすことのできる渇望を「魂の渇き」と呼ぶことがふさわしいのかどうか分かりませんが、その魂の渇きとも呼ぶべき言葉は詩編63編2節にこう記されています。
「神よ、あなたはわたしの神。 わたしはあなたを捜し求め わたしの魂はあなたを渇き求めます。 あなたを待って、わたしのからだは 乾ききった大地のように衰え 水のない地のように渇き果てています。」
人々はこの魂の渇きの本質が分からないために、様々なものをもってこの渇きを癒そうとしているというのは真実だと思います。では、逆にキリストの与える水をいただくときには、力や金銭や、そうしたものへの渇きもなくなるということでしょうか。いえ。そうなのではなく、魂の渇きが満たされないために起る様々なものの乱用から魂が解放されるという事なのです。
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