タイトル: 神様はわたしをどう見ていますか? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームtadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、tadaです。今月も取り上げていただいてありがとうございます。感謝しています。しかし、私はあと少しの命なのです。最後まで聴いていることはもうできません。一番お聴きしたかったことは、こういうわたしを神様はどういうふうに見ておられるのかということです。苦しんで苦しんでの人生でした。今、死に際して、いったい自分が生まれ、そして生きた意味が全く分かりません。神様がおられるとしたら一体どういうふうに考えておられるのでしょうか」
tadaさん、いつもたくさんのご質問をお寄せくださってありがとうございます。ざっと数えてまだ百以上のご質問にお答えできていません。月に一度はtadaさんからのご質問を取り上げるようにしていますが、それでも計算すれば十年はかかってしまいそうです。十年ならまだわたしは現役でこの番組を続けていると思い、ゆっくりと一つずつでも答えていくつもりでいました。しかし、自分があと十年生きている保証などどこにもないということをすっかり忘れていました。まして、お聴きくださっているtadaさんがわたしよりも少しでも長く生きて、収録し終わった番組を全て聴くことができるかどうかなど、考えたこともありませんでした。
とはいっても、こればっかりは人間にはどうすることもできません。この原稿を無事に書き終えて録音をし終えることができるようにと願う他ありません。そして、放送されるその日に、tadaさんが聴いて下さることを祈るより他ありません。
ただ、今までたくさんのご質問の中で、きょうのご質問はtadaさんが一番お聴きになりたいこと、ということでしたので、他のご質問を差し置いて、きょうはこのご質問を取り上げることにいたしました。
まず、ご質問の中に出てきた「こういう自分」とおっしゃるのは、「苦しんで苦しんでの人生を今まで過ごしてきた自分」「苦しみのあまり、いったい何のために自分が生まれ、生きてきたのか、その意味が全く分からない自分」という意味でよろしいでしょうか。
tadaさんが今まで経験なさってきた苦しみについて、わたし自身は、tadaさんからいただいたお便りを通してほんの一部しか存じ上げていません。しかし、神様がおられるとしたら…tadaさんに合わせて、敢えて「神様がおられるとしたら」という言い方をしますが、その神様はわたし以上にtadaさんの苦しみをご存知であるはずです。
では、いったいその神様は苦しみの中にあるtadaさんをどうご覧になり、tadaさんの歩んできた人生の意味をどうお考えになっていらっしゃるのでしょう。
きっとこれから言おうとする言葉は、tadaさんを失望させてしまうかもしれません。しかし、不誠実な回答は却ってtadaさんをもっとがっかりさせてしまうと思いますので、敢えて正直にお答えします。
その一つは、わたしは神様ご自身ではないので、神様のお考えを代弁できる立場にいないということです。もし、それでもまるで神様の代理人のように、わたしがここでもっともらしいことを話したとしたら、それはその場を取り繕うための嘘にしかなりません。その嘘は、自分の立場を守るための嘘であるか、あるいはtadaさんを励ますための嘘でしかありません。嘘も方便というのなら、それも許されるのかも知れません。しかし、tadaさんはそんな嘘を期待されてはいないはずです。
二つ目のことは、聖書の中に、この世に生きている人、一人一人の人生の意味が個別に記されているというわけではないということです。ですから、わたしよりもはるかに優れた牧師や聖書学者に同じ質問を尋ねてみたとしても、tadaさんの人生の意味に限らず、たとえどんなに幸せで社会への貢献度の高い人についても、神様がその特定の人をどうご覧になっているのかは、その答えを聖書から引き出すことはできないのです。
では、聖書から人間の人生の意味について、何も引き出してくることはできないのでしょうか。個別的にではなく、一般的なことについてならば言うことができます。
その一つは、人間に限らず、すべてのものは神がお造りになったというのが聖書の教えです。その場合の「造る」という言葉には、造ることの意味と目的とが前提とされています。つまり、意味と目的のない産物を生み出すことを創造とは言わないのです。聖書が「神は天と地を創造された」というときに、その造られたものの目的を神は持っておられるということなのです。人間についても同じように、神が人間を造られたということの前提には、その造られた人間の存在には目的があるということなのです。意味のないもの、目的のないものを神は創造なさらないというのが聖書の教えです。
ところで聖書は人間について、もう少し踏み込んだことを述べています。それが二番目のことです。
コリントの信徒への手紙一の10章31節に「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」という言葉があります。この言葉は人間が生きている目的を端的に言い表した言葉として有名な箇所です。つまり、人間とは神の栄光をあらわすために造られたということです。その人がお金持ちであるか貧乏であるか、健康であるか病気がちであるかということにかかわりなく、今ある自分をもって神の栄光をどうあらわすかが求められていることなのです。
「神の栄光をあらわす」というのは、わたしなりの理解では、神の律法に従って生きるということです。神の律法とは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」です。完璧にそれを守ることができるかどうか、ということが第一の問題ではありません。その目的を知り、その目的に向かって歩んでいるかどうかということが、人生に意味を与えているのです。
人間の世界には人間を評価する様々な尺度があると思います。その人を好きか嫌いかで意味付けをする尺度があります。その人が自分にとって役立つ人間か役に立たない人間かでその人間の価値と意味を振り分ける尺度もあります。そうした様々な尺度で測られる自分に一喜一憂するのが人間です。しかし、そうした尺度に応えることを人生の意味や目的であると思い込んでしまうところに大きな落とし穴があると思うのです。
人間の期待、それは自分が自分に対して描く期待も含めてそうなのですが、そうした期待を人生の意味や目的であると履き違えて突き進んでしまうところに、人間の虚栄と落胆とが生まれるのです。
人に与えられた才能と機会は千差万別です。その一人一人異なる人間が個別に持っている目的も意味も、誰一人として同じものはないはずです。それに関しては、自分でそれを見出し、開花させていくより他はないと思うのです。しかし、それがどんな人生であったとしても、神の栄光に向かわないのだとすれば、それは空しく意味のない人生です。しかし、神の栄光に向かおうとする生き方であれば、その人生は意味深いものとなるのです。わたしは聖書の人生観をそのように読んでいます。
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