BOX190 2009年3月18日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 今度は誰が身代わりに? 神奈川県 H・Tさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのH・Tさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「はじめまして、初めて番組を聴きました。最近思ったのですが、世の終わりが近いのでは…。理由は戦争と人間の欲、大不況、地震、大雨、温暖化、聖地まで戦場に…。
 聖書ではキリストが人間の身代わりになって十字架にかかり、神は人間の罪を赦されましたよね。でも、現代にはキリストは居ません。
 さて神が怒られたら今度は誰が身代わりになるのでしょうか? 神が地球をしまわれてリセットして新たに地球を創られるかもしれませんね。」

 H・Tさん、初めて番組を聴いてくださったとのこと、ありがとうございます。そして、さっそくご質問をお寄せくださって嬉しく思います。
 確かに世の中を観ていると、不安なニュースや悲しいニュースが溢れています。わたしの友人などはもうニュース番組を見るのが嫌になるくらいだとさえ言っています。いろんな意味で世の中が悪い方へ向かっているように思われて仕方ないと言うのです。そう考えると、世の終わりも近いと考えてしまうのも無理はないように感じられます。

 しかし、別の友人はもう少し冷静にこう語っています。戦争も人間の欲も今に始まったことではないし、天変地異も昔から繰り返し起っていること。だからいたずらに不安を煽るのはよくないのではないか、と。
 確かに、それにも一理あるように思います。いたずらに不安を煽って、冷静な判断を失ってしまうことは、問題を正しい解決へと導くよりも返って複雑にしてしまうものです。
 たくさんの問題をただ短絡的に終末への動きであると片付けてしまうのではなく、一つ一つの問題を切り分けて冷静に見つめる目も必要です。

 ただ、一人のクリスチャンとして、「目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)とおっしゃるキリストの言葉に心を留めて信仰の歩みを日々歩み続けることの大切さは言うまでもないことです。
 「その日、その時は、だれも知らない」とイエス・キリストはおっしゃっていらっしゃるのですから(マルコ13:32)、世の終わりがあたかもきょう明日にでも訪れるかのような言い方を軽率にするのは、明らかに間違っているでしょう。しかし、その反対にノアの洪水時代の人々のように、あまりにも何も考えずに、飲んだり食べたり嫁いだりする日々の生活に明け暮れていることも間違いなのです(マタイ24:36-42)。
 世の終わりを定められた父なる神を畏れつつ、日々目を覚ましていることこそが大切なことです。

 さて、H・Tさんは、新約聖書の時代にはイエス・キリストが身代わりとなって十字架におかかりくださったお陰で、神は信じる者に罪の赦しをお与えになった、と書いてくださいました。そして、果たして今の時代に対して、神が犯した罪の償いを要求したならば、一体誰が身代わりとなってくれるだろうかと嘆いていらっしゃいます。
 確かに今の時代の罪の責任を今の時代が担い、その償いをだれか代表の人物が果たさなければならないとしたら、だれもこの任を神の御前で完全に果たせる人間はいないことでしょう。
 ただ誤解してはいけないのですが、イエス・キリストがの身代わりとなって果たしてくださった罪の償いは、イエス・キリストがいらっしゃったその時代だけのものでは決してないということです。イエス・キリストの十字架の救いの御業は、時代が変わるごとに繰り返される必要のないものなのです。一回限りの十字架での犠牲が、過去と現在と未来のすべての罪をあがなったのです。

 そのことを新約聖書のヘブライ人への手紙は、旧約時代の神殿で捧げられた動物の犠牲と比べてこう述べています。

 「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブライ9:24-26)

 ヘブライ人の手紙はキリストの贖いが完全であったことを何度も強調しています。もしそうでないとすれば、キリストの犠牲は、旧約時代の人々が捧げていた動物の犠牲と効果の点で何も違いのないものになってしまいます。信じる者にとってはキリストの十字架の犠牲だけで十分なのですし、キリスト以外の何かによって罪の赦しを獲得しようとしても、それは必要を満たすほどに十分ではないのです。
 ですから、聖書はキリストの十字架の贖いが完全であったことを教えると同時に、その結果として、救いに必要なそれ以外のものを何一つとして求めてはいないのです。ただ信仰をもって、このキリストの贖いを信じることだけが求められているのです。

 H・Tさんがおっしゃるとおり、キリスト以外に、今の時代の罪を償うことができる人間は誰もいないのです。そのように聖書はわたしたちに教えているのです。

 さて、最後にH・Tさんはお便りをこう結んでいます。

 「神が地球をしまわれてリセットして新たに地球を創られるかもしれませんね。」

 キリストだけが罪を償い、キリストだけが身代わりとなって罪人をあがなってくださったという聖書の教えから導き出されるもう一つの結論は、キリスト以外に我々人類の希望はないと言うことです。キリストの他に救いを求めても現実にはないのですから、キリスト以外に託された希望も古い時代の天地と共に過ぎ去っていかなければならないのです。
 聖書は確かに新しい天と新しい地の創造について語っています。しかし、残念ながら、その新しい天と新しい地には、罪がそのまま住みつづける場所がないのです。聖書は厳粛にその事実を語っています(黙示録21章)。
 もちろん、どんなに厳粛に聖書が語っていても、それを信仰をもって受け止めない人にとっては、ノアの日の洪水の時と同じように、これらの言葉は馬鹿げた話としてしか人々の心に響かないことでしょう。

 しかし、たとえそうであっても、少なくとも今は恵みのときなのですから、時が良くても悪くても、御言葉を臆することなく語りつづけようではありませんか。

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