タイトル: 旧約聖書は一夫多妻を前提としている? 埼玉県 A・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのA・Kさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「聖書の結婚観についての質問です。イエス・キリストは確かに一夫一婦制を神の定めた結婚であると説いているように思われますが、旧約聖書を読むと、そうではない現実を目の当たりにします。族長のヤコブが然り、ダビデ王が然りです。もちろん、彼らが正しい結婚観に生きているのではなく、人間としての罪深さのゆえに複数の妻を持っていたのかもしれません。けれども、申命記21章15節を読むと、いきなり『ある人に二人の妻があり』と出てきて、一夫多妻を前提とした掟が記されています。
となると、旧約聖書の時代には一夫多妻制は禁じられてはいなかったいということなのでしょうか。
今日でも多くの国ではまだ一夫多妻制の結婚制度に生きている人々がいると言うことを耳にしました。聖書は結婚についてどのように教えているのでしょうか。よろしくお願いします。」
A・Kさん、お便りありがとうございました。確かに新約聖書を読む限り、一夫一婦制の結婚が当たり前のように前提とされています。A・Kさんのお便りの中にもありましたが、何よりもイエス・キリストご自身が創世記から引用してこうおっしゃっています。
「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マタイ19:4-6)
ここには結婚は人間の創造以来神が定めた制度であることと、夫婦の一体性が述べられています。この場合の一体性とは一人の男と一人の女の一体性です。従って、一夫多妻の一体性ということは、ここでは少しも前提とされてはいないのです。むしろ一夫一婦制が前提とされていることは、そのすぐ後に記されていることからも明らかです。
「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」(マタイ19:9)
もし一夫多妻制が前提とされていたならば、何人妻を娶ろうが姦通の罪とはなりません。しかし、イエス・キリストは、妻を離縁して他の女性と結婚することでさえ、姦通の罪を犯すことになるとおっしゃっているのですから、これは明らかに、一夫一婦制こそ神が定めた結婚制度であるということです。
新約聖書が一夫一婦制を前提としていると考えられる証拠には次のような箇所も挙げることができます。パウロはテモテに当てた手紙の中で、教会の監督としてふさわしい人物として「一人の妻の夫」であることを挙げています(1テモテ3:2)。これは単に既婚者と言う意味ではありません。わざわざ「一人の」という言葉が加えられているところからも分かるとおり、一夫多妻に対して、一人の妻とだけ結婚している人物という意味です。
穿った言い方をすれば、その当時のキリスト教会の外では一夫多妻制が当たり前だったのでしょう。また、そういう習慣の中から改宗してクリスチャンになった人もいたかもしれません。そうであればこそ、教会を監督するものは一夫一婦制を守る人でなければならないとパウロは考えたわけです。そして、そのことは当然、神は一夫一婦制を結婚の正しいあり方と定めてくださっているということが前提になければ意味をなしません。
さて、ここからがA・Kさんのご質問の肝心な点ですが、旧約聖書を読むと、キリスト教会の前提とは明らかに違う現実に接します。A・Kさんが具体的な例を挙げてくださったように、族長のヤコブはレアとラケルという二人の姉妹と結婚しました。結婚の詳しい経緯は創世記29章に記されています。ヤコブの場合は望んで二人の妻を迎えたわけではありませんから、ヤコブが一夫多妻制を当然とは思っていたとは言えないかもしれません。ただ、正式な妻ではありませんが、女奴隷との間に進んで子供を儲けていますから、一夫一婦制を重要視していたとは思えません。
ダビデ王についてはサムエル記下の3章2節以下に、それぞれ母親の違う六人の子どもの名前が列挙されています。ソロモン王に至っては「七百人の王妃と三百人の側室がいた」(列王上11:3)といわれています。こうなっては、明らかに一夫多妻制がまかり通っている現実を認めざるを得ません。
そして、究めつけは、A・Kさんの指摘している申命記21章15節以下の掟です。
「ある人に二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。愛された妻も疎んじられた妻も彼の子を産み、疎んじられた妻の子が長子であるならば、その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。」(申命記21:15-16)
確かにこの申命記の規定は一夫多妻制という現実を前提としています。しかも、その一夫多妻制がもたらす害悪を想定して、非人道的なことがこれ以上起らないための規定です。つまり、一夫多妻制のものとではすべての妻が等しく愛される保証はありません。それだけでも不幸なことですが、それ以上に生まれてきた子供たちは、父親の都合で長子の特権を変えられたのではたまったものではありません。そういう人間のこれ以上の身勝手を防ぐのがこの規定の目的でしょう。
イエス・キリストは離婚についての律法の規定について述べられるとき、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」(マタイ19:8)とおっしゃって、離婚そのものを最初から神が定めたのではないことをはっきりとおっしゃっています。同じように考えるならば、申命記の21章15節以下に出てくる規定は一夫多妻制を当然のこととしているのではなく、動かしがたい人間の現実に更なる身勝手さが加わらないように戒めたものと理解すべきでしょう。
そもそも一夫多妻制はなぜ生まれたのでしょうか。その一つの理由は、女性の経済的な境遇の故であると言われています。経済的に女性が自立できない男性優位の社会では、必然的に男性に頼らざるをえなくなり、一夫多妻制が生まれたと言われています。
もう一つの理由として挙げられるのは、特に王の子孫を安定して残すためには、一人の妻では血統が途絶える危険性が高いからです。特に子供の死亡率が高く、また平均寿命の短い時代にあっては、多くの妻を持つことが必要になったのです。
しかし、そのどの理由をとっても、その仕組みは理解できますが、どれも人間の罪深さの尻拭いである印象をぬぐえません。
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