タイトル: 聖書と自殺について ハンドルネーム・たけしさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・たけしさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、この番組を楽しみに聴かせていただいています。
さて、不謹慎かもしれませんが、自殺について聖書の教えを聞かせていただきたいと思います。わたしが自殺をしたいということではありませんので、ご安心ください。また、身近にそういう人がいるというわけでもありません。ただ、純粋に聖書は自殺についてどういう立場なのか、それを知りたいだけです。ですから、ちょっと不謹慎な質問かとも思います。
一般的に言って、自殺も人を殺すことに変わりはないので、『殺してはいけない』という聖書の教えに反する、という説明はよく聞くのですが、それですべてなのでしょうか。よろしくお願いします。」
たけしさん、お便りありがとうございました。あくまでも知的な興味からというご質問の主旨ですが、答えるわたしの立場から言わせていただければ、なかなか知的な興味だけではお答えするのが難しい問題のように思います。と言いますのは、この番組を聞いてくださっている方の中には、自殺と関わって色々な思いを抱いていらっしゃる方がおいでだと思うのです。自分自身が自殺の経験者だったり、あるいはこれから自殺を図ろうと考えたりしている方もいらっしゃるかもしれません。あるいは身近な人を自殺で失って、一言では言い表せない複雑な気持ちを抱いていらっしゃる方もいらっしゃるはずです。そうした方たちが、知的な興味だけで、聖書がこの問題をどう扱っているのかを淡々と取り上げるのを耳にして、どんな思いを抱くだろうかと思うからです。
あるいはひょっとしたら、わたしの意図に反して、自殺しようとする思いを励ましてしまったり、ご遺族や友人の方たちの悲しみにさらなる悲しみを加えてしまうということもあるかもしれません。
たけしさんのように純粋に知的な関心から聖書の考えを知りたいとは思わない人のことも頭の片隅に置きながら、ご質問に答えて生きたいと思います。また、たけしさんとは違う立場の方は、どうぞそのあたりのことを含んで、番組をお聴きください。
さて、ご質問に答える上でまず問題となるのは、「自殺」という言葉で何を意味するかということが、実はそんなに単純ではないように思われるのです。単純に自分で自分を殺すことが自殺だと言っても、それですべてをひとくくりにすることは難しいのです。
たとえば、「生きるのが嫌になったから殺してくれ」と誰かに頼んで殺してもらったら、それは自殺なのでしょうか。厳密には自分で自分に直接手をかけて殺したのではないので、自殺ではないと言えるかもしれません。確かに殺したのは本人ではなく他人です。
もっともこの場合には普通は他殺ではなく自殺とみなされるでしょう。そして、自殺を手伝った人は殺人ではなく自殺の幇助として扱われるのが普通です。
しかし、今の例では状況が漠然としていましたが、こういう場合もあるかもしれません。医学的に見て治療の見込みがなくあとは死を待つしかない人が、「もうこれ以上の手立てを施すのはやめてください」と頼んだ場合、これは自殺を願うことでしょうか。それとも自殺とは違う「尊厳死」という概念をそこに適用して考えるべきなのでしょうか。もちろん、ほんとうに治療の見込みがないのであれば、今までの治療をやめて、痛みや苦しみの緩和だけに方針を切り替えて、その結果、死を迎えたとしても、それを殺人や自殺と考える人はいないでしょう。
しかし、こう言う場合もあるでしょう。手術を施さなければ確実に命を落とすことになるのですが、しかし、手術を受けてももとの身体には戻らないと言う場合です。身体や知能に相当な能力の欠損が生じてしまう場合に、本人が「それなら死んだ方がましだ」というかもしれません。それは自殺を望むことになるのでしょうか、それとも尊厳ある人間の生き方を望んでいるだけのことなのでしょうか。将来植物人間になるような事態になった場合、あらゆる医学的な処置を拒否しますという遺言を予め書いておくことは、自殺を希望するのと同じことなのでしょうか。
さらに、こういうこともあるでしょう。日本の刑法では心臓の停止をもって人の死であると考えるのが通説です。しかし、臓器の移植を合法化するためには心臓の停止ではなく、例外的に脳死をもって人の死と考えるようになっています。臓器の移植は本人の同意がなければできませんから、そういう事態に備えてドナーカードにサインをしておくことになります。さて、このことは自分の死を少しでも早めることに同意するのですから、一種の自殺と考えることができるのでしょうか。
今まで述べてきたことは屁理屈のように聞こえるかもしれませんが、しかし、何が自殺で何が自殺ではないのか、その線引きは簡単ではありません。
尊厳死と自殺の区別が問題となるのは医療の現場ばかりではありません。「信仰を捨てるか、さもなくば自害せよ」といわれた場合に、死をも恐れずに信仰を選んだとすれば、これを普通は自殺とは呼ばないでしょう。信仰を捨てる屈辱的な生き方をするくらいなら、尊厳ある殉教の死を選ぶと言うことです。
しかし、恥を晒して生きるのは武士道に反するので切腹するというのは自殺なのでしょか、尊厳ある死なのでしょうか。あるいはキリスト教以外の他の宗教を信じる人が、信仰を守るために死を選ぶことは尊厳ある死なのでしょうか、それとも自殺なのでしょうか。
さらには、他人の命を守って自分が死ぬのを選ぶのは自殺でしょうか、尊厳ある死でしょうか。一つしかない救命具を他人に譲って自分は死んでしまうような例です。
しかし、もっと単純な例を取り上げて考えて欲しいと言われるかもしれません。たとえば、将来を悲観して自殺したという場合です。これは自殺の典型的な例かもしれません。しかし、自殺した本人の尺度から言えば、それは尊厳ある死なのかもしれません。つまり、将来を考えても納得行く人間らしい生き方ができないと悲観して、むごたらしい死に方をするくらいならせめて人間として死にたいと言うことなのでしょう。
もっともこうなってくると、将来の自分に対する悲観的な物の見方自体が病的であるのかもしれません。そのような病的な感性がもたらした死を自殺と考えること自体が自殺の定義として妥当なのか、それもまた問題です。
以上、質問とは関係のないようなことを長々と述べて来ましたが、いったいどのケースについて、聖書の教えと照らし合わせるべきなのか、実はそこからして単純ではないと言いたかったのです。聖書が他殺については明言しているのに対して、自殺に関しては直接明言していないのは、事柄がそんなに単純ではないからだと思うのです。
一般的に言って人は自分を殺そうとは思わないものです。人が自分の死を選ぶケースと言うのは上に見てきたような特殊な状況のもとでのことです。だからと言って、それらの状況では自分の死を選ぶことがすべて許されるとはいえません。しかし、すべてが禁じられるともいえないのです。そして、聖書はそれらすべてのケースについて言及しているわけでもないのです。
あえて言えば、他者の命を救うための死に対しては肯定的です(ヨハネ15:13)。そうでなければイエス・キリストの十字架の死自体が否定されてしまいます。
ユダがキリストを裏切ったことを後悔して首を釣って死んだことに関しては、事実が述べられるだけで、自殺の是非についてのコメントはありません(マタイ27:5)。同様にサウル王が異教徒ペリシテ人によって殺されるのを屈辱的と考えて自害した事に関しても、事実が記されるだけで、是非についてのコメントはありません(サムエル上31:1-6)。
たけしさんの知的興味を満足させることはできなかったかもしれませんが、わたしに言えるのは以上のとおりです。あえて一言付け加えさせていただくなら、聖書は命与えられた人が人らしく生きることを望んでいます。そういう意味では、自殺も他殺も聖書は禁じているといえます。しかし、自分で自分の命を絶つというケースには様々な背景があるため、聖書はその具体的な例についてですら、その是非をコメントしていないということです。ですから、わたしたちが具体的例についてコメントすることはもっと慎重でなければならないと言うことではないでしょうか。
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