タイトル: 教会は何をやってるんですか! ハンドルネーム・激怒さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム激怒さんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「この未曾有の不況の中で、首を切られて職を失い、住むところさえない人たちのことを思うと、本当に気の毒でなりません。いったいキリスト教会ではこのような状況をどう考えているのでしょうか。隣人愛を説いている教会がただ手をこまねいて見ているだけだとしたら、これは神に対しての裏切りではないでしょうか。結局、誰しも自分が一番大切なので、仕方ないということなのでしょうか。そうだとしたら、そんな偽善はたくさんです。教会は一体何をやってるんですか、と怒りたくなってしまいます。先生はこのことについてどう思われますか。」
激怒さん、お便りありがとうございました。アメリカに端を発した世界同時的な景気の後退で、生活が窮地に追い込まれている方たちのことを思うとほんとうに心が痛みます。この状況を何とか打開できるものなら、一刻も早くそうしたいと願うのは、何も激怒さんだけではないと思います。
そうした熱い思いは共感できるのですが、しかし、何か怒りの矛先が違っているのではないかと感じるところもあります。もう少し冷静になって考えてみる必要があるのではないかと思います。
まず初めに、「いったいキリスト教会ではこのような状況をどう考えているのでしょうか。」という言い方ですが、「キリスト教会」を代表して答えることができる出来るようなひとくくりの実体が残念ながらあるというわけではありません。せいぜい答えることができるのはクリスチャン一人一人がこの状況をどう見ているのか、その一人として自分の考えを述べたり、自分の考えに従って行動をとることしか今のところできないのではないかと思います。
あるいは個々教会の中で何かしているというところがあるかもしれません。あるいは地域の教会が協力して何かをしているかもしれません。ですから、「教会がただ手をこまねいて見ているだけ」なのかどうか、「教会」というものをひとくくりにして答えることはできません。
もう一つ冷静になって考えなければならないことは、果たして教会の使命は慈善活動そのものにあるのかどうか、という問題です。一方でペトロやヨハネは、エルサレムの神殿で物乞いをしていた男に対して、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言葉をかけました(使徒3:6)。すべての人に対して、キリストの名によって立ち上がり、キリストの名によって歩むことを勧めることこそ、教会の使命であるといえるかもしれません。
しかし、他方では聖書にはこうも書かれています。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」聖書は、実行の伴わない隣人愛の空しいことをこのように記しています(ヤコブ2:15-16)。
ですから、それぞれの教会によって取り組み方は違うかもしれませんが、慈善のために使う献金は今までずっと献げられています。その使い道はまたそれぞれの教会の判断で用いられているはずです。
例えば、この番組を提供している北米キリスト改革派教会には世界宣教を進める部門と共に世界救済機構とも呼ぶべき組織もあります。この世界救済機構ではおもに第三世界と呼ばれる場所にいって、経済的な支援と共に、自分たちで手に職をつけ、経済的に自立できるような教育的な支援も行なっています。そして、こうした活動に必要な費用はすべて信徒の献金でまかなわれています。もちろん、この世界的な不況の中で資金繰りは悪化していることは否めません。だからといって、この活動に使われているお金を取り上げて、この不況で困っている日本人にまわすべきなのでしょうか。そのことで教会を非難すべきなのでしょうか。わたしは違うように思います。
そもそも、経済対策にしろ、住居問題にしろ、食糧問題にしろ、それらは国家のなすべき仕事であるとわたしは考えます。そのために神から権限を与えられ、そのために国民も企業も税金を納めているわけです。もし、怒りの矛先を向けるとしたら、教会ではなく、国家に対してこそ向けるべきではないかと思うのです。
しかし、また、民主主義の国である場合には、国政を動かす人々を選んでいるのは国民なのですから、結局のところ政治に無関心なわたしたち自身がその責任を負うべきなのではないでしょうか。
これはクリスチャンに限らず、そのための努力は国民として必要だと常々感じています。いつかどこかで話したかもしれませんが、日本国憲法の中で自分の肝に銘じている言葉があります。それは第十二条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」という言葉です。
自由や権利と言うものは黙っていてもついてくるものではありません。それは絶え間ない努力によって手に入れていくものです。不況は絶え間ない努力によっても避けることはできないかもしれませんが、不況によって脅やかされるかもしれない自由や権利は国民が自分たちの手で守っていくしかないのではないでしょうか。それこそが成熟した民主主義だと思います。
まして、教会と国家は共に神が与えた制度であると信じるクリスチャンにとっては、その両方の制度に対して最大限の努力と貢献を払うのが務めであると信じます。
さて、激怒さんがクリスチャンなのかそうではないのか分かりませんが、もしクリスチャンであるとするなら、まず、自分の所属している教会に対して、この経済不況の中で苦しんでいる人たちのためにもっと慈善の働きをするように働きかけることができると思います。ただ、怒りをぶちまけていても状況は変わりません。先ずは激怒さん自身が用途を指定して教会に献金を献げることで、教会の喚起を促すことができるはずです。それでも激怒さんが所属する教会がまったくこうしたことに無関心のままであったとしても、ひとりのクリスチャンとしてできることをまず率先して行うことができるのではないでしょうか。もし、激怒さんに余力があるのでしたら、NPOを立ち上げて他のクリスチャン仲間に支援を呼びかけることもできるでしょう。
しかし、激怒さんがクリスチャンでないのだとしたら、キリスト教会にその怒りの矛先を向けるのはどうかと思います。教会が無尽蔵に資金を蓄えているのであれば、非難することもできるでしょう。しかし、ほとんどの教会は信徒のささげる献金だけが活動の資金源です。そして、その信徒もまたこの不況下で苦しんでいるのです。その信徒たちの献金を教会外部の人たちが当てにするというのはどうかと思います。まして、既に支える相手が決まっている慈善献金を他の人たちにまわすことなど要求できる筋合いのものではないでしょう。
慈善や施しはクリスチャンだけに求められている隣人愛ではないはずです。人間として隣人愛に生きることは当然のことなのですから、他人の財布を当てにする前に、まず、自分が隣人愛に生きることが大切なのではないでしょうか。
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