いかがお過ごしでしょうか。湘南恩寵教会の鈴木牧雄です。
今日も最初に、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。マタイによる福音書27章42節です。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」
これは、十字架に架けられたイエス・キリストに浴びせられたあざけりの声です。今でも、「キリストはなぜ十字架に死んだのか。死んで復活するなどということなしに、罪の赦しを教えたのであれば、もっと多くの人が信じたと思うのに」と言われます。しかし、本当にそうでしょうか。
もし、キリストが苦しむことなく十字架から降りて来られたのなら、罪から救ってくださる救い主と信じることができるのでしょうか。もし、キリストが天から神々しい救いを教えてくださるだけだったのなら、自分の魂に命をお与えくださる救い主として、本当に心から信じることができるでしょうか。
罪とは、私たちの心と魂から命を奪い取るものです。だから、心と魂のこもった赦しでなければ、決して罪からの赦しにはなりません。また罪は、私という人間と生活を実際に歪め台無しにしています。だから、言葉だけでなく事実による救いでなければ、本当の救いにはなりません。それでキリストは、自らの命をささげるという事実によって、罪の赦しと救いをつかんでくださったのです。
信じやすいかどうかの問題ではありません。本当の罪の赦しは、キリストの十字架の死による救いしかないのです。