お元気にお過ごしですか。いずみ教会の小堀です。今日もご一緒に神様を見上げて歩んでまいりましょう。
聖書はこのように言っています。
「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」(ヨハネ4:3)。
これはイエス様のことです。ユダヤからガリラヤに行く道は二通りの行き方がありました。近道は当然サマリヤを通って、北上する道でした。しかし、ユダヤ人はわざわざ、ヨルダン川を渡って、ヨルダン川の東側を北上し、そしてまたヨルダン川を西に渡りなおして、ガリラヤに入るという方法を取りました。それは、何百年も前からユダヤ人はサマリヤ人を嫌って軽蔑していたからでした。しかし、イエス・キリストはそのサマリヤを通られたのです。
イエスは、旅を急がれていたのでしょうか。いろんな理由があるでしょう。しかし、本当の理由があるのです。それは無知で、迷信に甘んじ、自分の惨めさにも気がつかない、ふしだらな生活をしているサマリヤの女に出会うために、そしてお声をおかけになるために、イエスは、わざわざサマリヤを通って行かねばならなかったのです。
罪に鈍感になり、心の中に渇きも何もない、その女の心に、永遠の命が湧き出る真の水を与えていかれる、自分の罪に気づかせ、神の愛を知らせていく、新しい生活へと導いていく、そのために、イエス様は、この道を選ばれたのでした。真昼間、お疲れになられて、ヤコブの井戸の傍らに腰を掛けておられる、喉の渇きを覚えておられるイエス様のお姿の中に、魂を追い求めてやまない神の深い渇きを見ることができるのです。
この深い渇きによって私も人生が変えられました。どうぞ、あなたもこの愛を知って下さい。それではまた御機嫌よう。