ごきげんいかがですか。綱島教会の川杉安美です。
教会に行ったりキリスト教の話を聞いたりすると、よく罪人だと言われるのでいやだ、そのように言われてしまうことがあります。けれども、罪が分かるということは、新しくなれるということでもあるのです。
イエス様の時代に、ザアカイという罪深い男がいました。人から不正にお金を取り立てたり、お金をごまかしたりしていました。その人がイエス様と出会うことによって、罪が赦されて、新しくなることができました。
彼はイエス様と出会い、言います。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」。これは何もイエス様がそのようにしろと命じられたわけではありません。ザアカイが、自分は罪人だと分かり、それでもイエス様が赦して、自分を愛してくれている、それが分かったので、感激して自らそのように申し出たわけです。これまでは、人からだまし取る、そういう生活でしたが、これからは人に施しをする、そういう新しい人生になったわけです。
聖書には、次のような言葉もあります。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント5:17)。 ザアカイのように、人をだましたり、お金をごまかしたり、そんな悪いことはしていないと言うかもしれません。しかし、神様の前に、心も言葉も行いも、何もかも罪がなく聖いと言い切れるでしょうか。神様の前に素直に罪を認めていくことは、新しくなれる道なのです。