いかがお過ごしでしょうか。東京教会の今井献です。
神はどこにいるのか、と聞きたい方はいませんか。イエス様はマタイ福音書6章で、「隠れたところ」におられる神、ということを繰り返し語っておられます。隠れたところとは、屋根裏のことでしょうか、裏庭でしょうか、洞窟の中のことでしょうか。
イエス様は、当時の宗教指導者たちが、人前で施しや祈り、断食をしたがる姿を非難して、神は人の前にいるのではない、人の評判が神の評価ではないということを教えたいのです。それで、隠れて施しをしなさい、隠れて祈りなさい、隠れて断食をしなさい、そうすれば隠れたところにおいでになる神がそれを見て、報いてくださる、とも繰り返し語っておられます。
神様と私たちとの信仰的な関係は、人の判断や評価で決まるものではありません。ですから、神とともに生きようとする真剣な信仰の姿勢は、裏表のない生き方、振る舞いとしてにじみ出てくると言えます。
また、イエス様は、人前で宗教行為に励む指導者のことを、偽善者であると、激しく指摘しておられます。偽善者とは、俳優とも訳せる言葉で、人前で演じる者のことです。職業としての俳優は古来からある立派な職業ですが、生き方全体が、人の評価を第一とし、演じるようなものになるなら、それは自分を見失うことに他なりません。
隠れたところにおいでになる神を見出し、この神の前で生きるとは、良くも悪くも本来の自分を発見し、自分が生きている意味を確認することでもあります。