おはようございます。盛岡教会の久保田証一です。
盛岡に住んでいると、岩手山の雄大さと美しさに目がとまります。岩手山は南側から見た姿と、北側から見た姿では全く違う山のように見えます。真ん中が火山の火口で大きくへこんでいるので、北と南では別々の稜線を見ているからです。
私たち人間の場合、相手によって見せる姿がおのずから違います。友人に対するのと、目上の人に対するのでは違って当然です。どれも自分の姿だとは思いますが、時に私たちは相手によってわざと態度を変えたり、上手に使い分けたりして、よそ行きの顔をすることもあるわけです。だから、どんなに親しい相手でも、私たち自身の姿を完全に把握することなどできないでしょう。
しかし神様は、わたしたちのありのままの姿を見ておられます。イエス・キリストは、隠れたことを見ておられる神様に祈りなさい、と教えてくださいました。神様には何も隠すことはできません。これは、恐ろしくもあり恥ずかしくもありますが、逆にありがたいことです。神様の前には、自分を取り繕う必要がないからです。
旧約聖書の御言葉を紹介します。
「主よ、あなたは私を究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」詩編139編1節、2節