聖書を開こう 2008年10月30日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: わたしよりもすぐれたお方(ルカ3:15-20)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人々から期待されると言うことは、嬉しいことでもありますし、また期待されればそれに応えたくなるのが人間です。今学んでいる洗礼者ヨハネに対する人々の期待は福音書自身が記しているように相当なものがありました。
 そのことを裏付けるように、一世紀末に書かれたフラヴィウス・ヨセフスという人の『ユダヤ古代誌』の中には、洗礼者ヨハネがどれほど人徳が高く民衆の支持を得ていたかと言うことが記されています。
 そうした高まる期待の中で神の真理を正しく語ることはそんなに簡単なことではなかったと思います。今日の聖書の箇所ではあくまでも来るべきメシアを指し示す自分の務めに徹しているヨハネの姿が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 3章15節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 今お読みした箇所によると民衆たちの期待はとうとう洗礼者ヨハネ自身が実はメシアなのではないかと考えるほどに高まっていました。このような期待についてしるしているのは確かにルカによる福音書だけです。しかし福音書の中では他の福音書とは少し書き方の違ったヨハネによる福音書も、同じように洗礼者ヨハネの中にメシアの到来を見出そうとする人々の期待があったことを暗示しています(ヨハネ1:19-28、3:22-30)。
 こうまで期待されれば、その期待に酔いしれて、つい自分がメシアであると口走ってしまう誘惑がないとはいえません。実際、この時代はメシアへの期待が高まっていた時代ですし、二世紀になるとバルコクバのような偽メシアも表れています。洗礼者ヨハネが民衆によって担ぎ出される危険性は十分にあったはずです。
 もちろん、自分がメシアであることを公言すれば、政治的に自分の身に及ぶ危険があることはだれもが十分承知していました。しかし、洗礼者ヨハネが自分がメシアではないと断言してやまなかったのは、命の危険を恐れたからではありません。きょうの箇所にも出てきたとおり、ヨハネは権力者におもねることなく、歯に衣を着せずに悪事を糾弾する人です。
 ヨハネが自分はメシアではないことを公言してやまなかったのは、他ならない神を畏れたからです。洗礼者ヨハネはあくまでも自分に与えられた務めに忠実な人でした。その務めがどんなに目立たない仕事であったとしても、逆に、それがどれほど人々によって買いかぶられたとしても、与えられた務めをはっきりと自覚し、どこまでもその務めに徹しようとしたのです。

 ヨハネは先ず、メシアの道を備える自分と、来るべきメシアご自身がどれほど違った存在であるかを示すためにこう言います。

 「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」

 
 当時の人々は裸足で歩くかまたはサンダルを履いて歩くものでした。そして奴隷のなすべき務めの一つは、主人の履物の紐をとくことでした。しかし、ユダヤではそのようなことは人としての品格を下げる行為であるとして、奴隷であっても主人のサンダルの紐をとくことは免除されていたそうです。
 ところが、ヨハネは自分と来るべきメシアの違いを表現する時に、その履物の紐を解く価値すら自分にはないと言うのです。もし言うのであれば、「わたしは、その方の履物のひもを解くだけの僕に過ぎない」と言えば、それだけでも当時のユダヤ人には十分にその違いが伝わったはずです。ヨハネが語ったことは、主人と奴隷の隔たり以上の違いがそこにはあるというに等しいのです。

 洗礼者ヨハネは自分の後から来ることになっているメシアを自分よりも優れ方と表現しています。あるいは自分よりも力ある方と翻訳しても良いでしょう。どういう点で自分よりも優れているのか、あるいは、どういう点で自分よりも力あるお方なのか、洗礼者ヨハネは二つのことを挙げています。

 その一つは自分の授ける洗礼は水による洗礼であるのに対して、来るべきメシアの授ける洗礼は聖霊と火による洗礼であるということです。この場合、メシアが授ける洗礼として「聖霊と火」と二つ挙げているのは、その数の違いを問題としているのではありません。「火」は清める働きの象徴として、「聖霊」の働きをより強く表現しているのです。もとより、水も清めの象徴に過ぎません。水そのものが人々を罪から清めるわけではありません。
 しかし、メシアの授ける洗礼は聖霊そのものなのです。象徴ではなくて実質的に人を清める力をもって、来るべきメシアは人々に洗礼を授けるのです。水の洗礼と聖霊による洗礼とでは、質的にまったく異なるものなのです。

 来るべきメシアには聖霊を派遣し、人々の上に注ぐ権威があります。そのように聖霊を派遣して、人を清め、人に信じる心を与えることができるのです。しかし、ヨハネには水の象徴によってそれを描くことができても、その実質をもたらす力はないのです。そのことはヨハネに限らずどんなクリスチャンであったとしても同じことです。来るべきメシア、つまりイエス・キリストだけが聖霊を遣わし、人々の心を清め、信じる信仰を芽生えさせることができるのです。

 来るべきメシアが優れている第二の点は、裁きにおける力です。先ほど「火」は清める働きの象徴だと言いました。金属を精錬する火は正に不純なものを取り除く清める火です。不純なものを取り除くと言う意味では、その火は同時に裁きの火でもあるのです。来るべきメシアは不純なものを峻別し。焼き尽くすお方なのです。
 しかも、ヨハネの説教によれば、「斧は既に木の根元に置かれている」(3:9)ほどに裁きのときは切迫しているのですから、来るべきメシアを迎える態度は真剣そのものでなければならないのです。

 こうしてヨハネが解き明かす事柄は、ただ二千年前のユダヤの民衆にとってだけ意味のある事柄では決してありません。既にイエスをキリストとして迎え入れた者にとっても、またこれからイエスを信じようとする者にとっても、力あるお方としてのイエス・キリストに目を留める必要があるのです。

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