聖書を開こう 2008年10月23日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 悔い改めにふさわしい実(ルカ3:7-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「ありのまま」という言葉をよく耳にするようになってから、久しい年月が経つように思います。キリスト教会でも一般の社会でも「ありのまま」の自分で居ることが肯定され、尊重されるようになりました。
 もちろん、そのことに異議を唱えるつもりはありません。無理に背伸びしてストレスを感じるよりも、ありのままにのびのびと活き活きと日々を過ごした方がずっと楽しい毎日に決まっています。
 しかし、「ありのまま」であることと「わがまま」であることは、似ているようで違います。聖書はわがままで自己中心的な自分と決別して、神の御心のままに生き、しかも、それがありのままの自分であるような生き方を望んでいます。そして、そこには罪を悔い改める生き方が求められているのです。
 今日の聖書に登場する洗礼者ヨハネが宣べ伝えたものは「悔い改め」のメッセージでした。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 3章7節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

 きょうの箇所は洗礼者ヨハネが、自分のもとに集まってきた群衆に語りかけたメッセージです。その内容は一読して感じるとおり、とても厳しいものです。暢気な気持ちでやってくる者の頭に一撃ガツンと食らわせるような衝撃的な言葉です。もちろん、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた群衆がわたしたち以上に暢気で危機感のない人たちだった訳ではありません。そうであればこそ、なおのこと真剣にヨハネの言葉に耳を傾ける必要があるのです。

 ヨハネはまず群衆たちに「差し迫った神の怒り」を伝えました。「斧は既に木の根元に置かれている」とさえ語ります。それほど緊迫した神の怒りを語っているのです。
 だれでも、首もとにナイフを突きつけられれば、自分がどれだけ危険な状態か肌で感じることができるはずです。そんな危険な状態でへらへらとしていられる人がいるとすれば、それはよほど危機管理能力のない人か、諦めきった人です。
 しかし、残念なことに差し迫る神の怒りをそのように肌身に迫ったこととして身近に感じることがほとんどないのが人間です。現代人が特別にそうだと言うのではありません。ヨハネが相手をしているのは2000年前のユダヤの人々です。今も昔も神の怒りを何とか割り引いて考えようとするのが人間の罪深さなのです。
 ヨハネのもとに来た群衆は考えました。

 「我々には信仰の父、アブラハムがいる。我々はその子孫だ。異教徒たちは滅びても、我々は安泰だ。」

 わたしたちはこれと同じようには考えないとしても、それでも別の理由をつけては、神の怒りを逃れる十分な言い訳を考えるのです。たとえば、日本人ならこう言うでしょう。

 「福音を聞かないで死んだ日本人は山ほどいる。その人たちがみな裁かれるなんておかしいし、そんなことはとても信じることはできない。むしろ福音を聴くチャンスが遅くなった我々こそ、優先的に救われるべきではないか」

 もっともらしい意見です。聖書の神がどんなお考えで救いの実現の順序をお決めになっていらっしゃるのか、わたしにはもちろんわかりません。しかし、なによりも大切なことは、人間が罪のうちにあると言う事実と、その罪を神は決してどうでもよいこととしてはお見過ごしにはならないという厳粛な事実です。しかも、いつ神の裁きが実行されてもおかしくないほどに時間は迫ってきていると言う緊迫した状況があると言うことです。
 洗礼者ヨハネはその緊迫した状況の中で、神の怒りを真摯に受け止め、悔い改めることを一人一人に迫ってきているのです。

 ヨハネが伝えた悔い改めは、とても具体的なものでした。生活や生き方を変えない悔い改めは、ほんとうの悔い改めではないと言うのです。気持ちだけ、思いだけ悔い改めるということではないのです。

 群衆には「下着を2枚持っている者は、1枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と具体的に勧めます。
 徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」と改めるべき点を挙げて示します。
 兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と、これまた細かい具体的な指示を与えます。

 それらは一言で言えば、神を畏れ敬って、隣人を愛するという一言に尽きるでしょう。悔い改めると言いながら、神をないがいしろにし、隣人を人間として扱わないことは矛盾した生き方なのです。罪のままに生きるという意味での「ありのまま」の自分であってはいけないのです。

 しかし、そうは言っても、悔いてはまた罪を犯すのが人間の弱さです。またそれが人間の現実であるというのも事実です。しかし、それを悔い改めない言い訳にしてはいけないのです。また、そういう弱い自分に失望して、神の救いの恵みを疑ってもいけないのです。

 洗礼者ヨハネの説教は確かに厳しく恐ろしい神の怒りを語っているように聞こえます。しかし、つまるところは、自分の罪の現実を知って、神が与える救いの恵みに向かって自分を明渡すことを求めているのです。それが悔い改めることの本質なのです。救いの恵みに自分を明渡すのですから、自分の生活のために隣人から騙し取ったり搾取したりする必要がないのです。
 そして、この悔い改めの生活は、罪の赦しを得るための条件なのではなく、むしろ、罪赦される恵みの結果として、そのように押し出され、実を結んでいくのです。

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