聖書を開こう 2008年9月18日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: さあ、行こう!(ルカ2:15-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 クリスマスの讃美歌に「Adeste fideles」というラテン語の歌があります。日本語では「神の御子は今宵しも」として知られるクリスマスキャロルです。この歌のの歌詞は、キリストを信じる者たちに対する呼びかけであると同時に、キリストの誕生を最初に知らされた羊飼いたちの喜びを歌い上げています。
 繰り返し部分に歌われるvenite, adoremus Dominum(来たれ、主をあがめよう)とは、救い主誕生の喜びに満たされた羊飼いたちが、あたかもすべての時代のクリスチャンに呼びかけている言葉のようにも聞こえます。
 きょう取り上げようとしている聖書の箇所には、この羊飼いたちの喜びの躍動が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 2章15節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 先週学んだ個所には、救い主がお生まれになったという知らせが天使から羊飼いたちに伝えられた様子が記されていました。きょうの箇所は、その知らせに対する羊飼いたちの応答が記されています。
 喜びの知らせを伝えた天使たちの姿が見えなくなると、羊飼いたちはさっそく「さあ、ベツレヘムに行こう」と相談します。
 先週も取り上げたとおり、これは救いの「きょう」という日に対する羊飼いたちの応答として描かれているのです。天使からキリストの誕生を告げられた羊飼いたちは「そのうち行ってみようか」という先延ばし主義の態度で天使のお告げに応答したのではありません。また、「だから何なの?」という無関心の態度を取ったのでもありません。彼らは即座に天使の言葉に応答して、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言ったのです。
 もちろん、間髪いれずに行動に出るということがいつも正しい応答の仕方であるとはいえないかもしれません。聖書の言葉をよくよく吟味して、それから聖書の招きに応答して、キリストを信じる信仰を告白する人もいるでしょう。キリストを信じるに至るまで、何年もかかるという人がいても当然です。しかし、それは「そのうち信じよう」と思うのとは違います。何年掛かったとしても、それは立派に「きょう」という救いの日に対して応答をしているのです。
 ルカによる福音書は、この羊飼いたちの姿を通して、わたしたち一人一人に「きょう」という救いの日にわたしたちが応答することを願っているのです。

 羊飼いたちは生まれたばかりの救い主のもとへ「急いで行った」とあります。後に徴税人の頭であったザアカイもイエスの招きに応じて、「急いで」木から降りてイエスのもとに向かったというエピソードが記されます(ルカ19:6)。
 急ぐというのはただスピードの速さの問題ではありません。大切なのは気持ちの問題です。早く行きたい、早く救い主に出会いたいと願う熱心さです。ルカによる福音書はそうした救いに対する熱心な思いを大切にしているのです。
 羊飼いたちは天使の言葉を聞いて、早くその事実を確かめたいと願う熱心な思いが心に与えられたのです。急いでベツレヘムに向かったのはその熱心な気持ちの表れに他なりません。
 この熱心な行動もまた「きょう」という救いの日に対する応答として描かれているのです。

 さて、生まれたばかりのキリストのもとを訪ねた羊飼いたちが見たものは、まさに天使が自分たちに告げたのと同じ光景でした。
 そこで羊飼いたちが取った行動には二つのことがあります。一つは、天使が幼子について自分たちに話してくれたことを人々に知らせたということです。
 いったい幼子のどんなことについて人々に語り伝えたのでしょうか。それはただ単に天使が告げたとおりに幼子が布にくるまって飼い葉桶の中に寝ているという場面の説明をしたということではないでしょう。そうではなく、その飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子こそが、待ち望んでいた救い主であるという天使たちのメッセージ、そのメッセージを伝えたのです。

 先週も少し触れましたが、ユダヤの世界では羊飼いたちは「地の民」と呼ばれて、蔑まれた人たちでした。裁判のときには証言させてもらえないほど信用のない人たちでした。それでも、彼らは天使のメッセージを聞いたとおり、また自分たちの目で確かめたとおり、恐れることなく伝えたのです。
 もちろん、天使を見たということも、飼い葉桶の中の赤ん坊が救い主だということも、どれほど信用度の高い人が語ったとしてもすぐには信じてもらえない内容です。まして羊飼いたちがそのことを触れ回ったとしたら誰も信じてはくれないでしょう。しかし、それでも羊飼いたちは語らずにはいられなかったのです。

 救い主誕生の光景を目の当たりにして羊飼いたちが取ったもう一つの行動は、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」ということです。

 彼らは神を神としてあがめる思いで満たされ、神を賛美する気持にあふれた者とされたのです。天使から伝えられたキリスト誕生の知らせは、礼拝への招きでもあったのです。羊飼いたちはその招きに応じて、神をあがめるもの、神を賛美するものとされたのです。

 マタイによる福音書にもイエス・キリストの誕生の次第が記されていますが、そこにも同じようにキリストを礼拝する者たちが描かれています。それはヘロデ王でもなければ、祭司や律法学者たちでもありません。異邦の世界からやってきた博士たちがキリストを礼拝したのです。
 同じように、ルカ福音書が描く最初のキリスト礼拝も名もない羊飼いによって捧げられているのです。

 さて、マタイ福音書が描く占星術の博士たちも、ルカが描く羊飼いたちも、「帰って行った」と記されます。彼らはそれぞれ自分たちのもといた生活の場に戻り、そこで暮らしているのです。それはただ興味本位でキリストを見にきたということではありません。一目見れば後は十分ということではなかったでしょう。
 キリストを信じ、神をあがめる生き方とは、それぞれの生活の場を軽んじないことでもあるのです。神はわたしたちを日常の生活の場で招いてくださり、再び日常の生活の場へと遣わしてくださるのです。

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