メッセージ: 信仰に固く留まるように(コロサイ2:1-5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
牧師にとっていつも関心があることは、教会に集う一人一人の信徒が、イエス・キリストへの信仰にしっかりと留まるということです。信仰に留まるということは何でもないことのようですが、そんなに簡単なことではありません。ですから牧師は自分の手腕を過信してはならないのです。なぜなら自分の指導力一つで皆が固く信仰にとどまるというほど簡単ではないからです。もちろん、だからといって一人一人の行くがままに任せていたのでは、あっという間に教会全体の信仰生活が揺らいでしまいます。それで自分の力を超えた神の力をいつも求めながら、すべての信徒が健全な信仰の歩みを続けることができるようにと祈りながら群れを導いていく心がけが大切なのです。
教会の指導者としてのこの心構えは。キリスト教会が始まった最初の時代から今に至るまで、ほとんど変わることはありません。
きょうこれから取り上げる箇所には、パウロがコロサイやラオディキアの教会の人々のためにどれほど心を割いて働いてきたかが記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 2章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。」
先週取り上げた箇所には、神から自分に与えられた福音宣教の務めについて、パウロは熱く語っていました。きょうの箇所ではその宣教の務めの具体的な場所であるコロサイやその周辺の教会について、パウロがどれほどそれらの群れを心に留めているのかということが記されています。
既に学んだように、パウロにとってはコロサイの教会は自分自身が直接福音を携えていった場所ではありませんでした。
パウロが「わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために」と書いているのは、決して少ない人数の人たちのことを念頭においているのではありません。むしろパウロにとってはコロサイの教会のほとんどの人は実際に会ったこともない人たちだったことでしょう。もちろん、コロサイ教会出身の幾人かの人たちとは直接面識があったかもしれません。しかし、ほとんどの人とは直接に会ったことはなかったはずです。
そのまだ会ったこともないクリスチャンのために、パウロは自分が「どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい」と記しています。
これは決して押し付けがましく恩を売っているわけではありません。また誰かの働きを自分の物にしようとしてそう言っているわけでもありません。そうではなく、パウロにとっては福音宣教の働きは決して個人の働きではないのです。コロサイの地に誰が直接福音を携えて行き、誰が直接コロサイの教会の設立のために働いたのか、ということよりも、それは教会全体の働きとして、自分もその働きに与っているという思いでパウロはこの手紙をしたためているのです。
パウロはキリストから福音宣教の務めを与えられた者として、誰が宣教して育てた教会であれ、その教会のために共に労苦して戦う姿勢の人なのです。同じ務めに与る同労者が苦労して福音を伝えたその働きに共に与り、日ごろからその教会のために共に祈っているのです。
その日ごろの戦いの中で何を第一として願ってきたのか、パウロはこう記します。
「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。」
パウロにとって一番気がかりなことは、教会に集う一人一人が心に励ましを受けているかどうか、あるいは心にまことの慰めを感じているかどうかという問題です。
その励ましと慰めは、信徒の交わりからくるものです。教会とは愛によって結び合わされた信徒の交わりです。神は教会の交わりを通して、そこに集う一人一人を励まし、豊かに慰めてくださるのです。
ところで、その交わりの絆は「愛」であるとパウロは言います。この手紙の中でパウロは「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:14)と語っています。もちろん、ここで言う「愛」とは神がキリストを通してわたしたちに示してくださった神の愛です。キリストは弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃったその愛です。その愛に結び合わされるときにこそ、心を励まされ、心に慰めを豊かにいただくことができるのです。パウロはそのことのためにまだ直接会ったことのないコロサイの教会のために労苦して闘っているのです。
またパウロの願いは、教会が神の秘められた計画、つまりキリストを豊かに知るということです。なぜなら知恵と知識の宝はすべて、このキリストの内にこそ隠れているからです。
パウロはコロサイの教会の人たちが愛によって結び合わされ、豊かな慰めと励ましをいただくことを願っていますが、それはイエス・キリストを抜きにしてはありえないことなのです。むしろキリストを深く知ることを通してますます愛に結び合わされ、励ましをいただくことになるのです。
実はパウロがこのことにこだわるのには、はっきりとした理由がありました。
「わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。」
これからパウロが取り上げようとしている間違った教えによって、キリストの福音がゆがめられてしまうのを恐れたからです。コロサイの教会の人々がその間違った知識に陥り、キリストの愛から離れ、心の慰めを失ってしまうことを心配しているからです。
このコロサイの手紙を読むわたしたち一人一人に対しても、パウロは同じ思いを抱いているのです。
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