聖書を開こう 2008年5月1日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 福音宣教の苦しみと喜び(コロサイ1:24-29)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 プロテスタントの宣教師たちが日本に福音を携えて入ってきたのは、明治時代になる少し前の時代でした。その頃の日本はまだキリスト教が禁止されていた時代でしたから、もちろん、布教の自由などというものはありませんでした。明治時代に入ってから5年ほどの間もキリスト教の禁令は解かれませんでした。
 それでも数多くの宣教師たちは言葉も習慣も十分に知らない日本にやって来て、苦労しながらも福音を伝えようとさまざまな機会を用いようとしてきたのでした。
 その頃は太平洋航路もスエズ運河もない時代でしたから、ニューヨークを出発した船はひたすら東へ進み、アフリカ大陸ぐるりとまわって、極東の地、日本にまで来なければなりませんでした。長旅の苦労はもちろんのことでしたが、文化と宗教のまったく違う国で宣教活動を始める苦労はもっと大きなものがありました。
 しかし、宣教に伴う苦労はキリスト教会が始まった時からあったといっても言い過ぎではありません。初代教会の時代に活躍した使徒パウロもそうでした。きょう取り挙げようとしている個所には、福音宣教の務めに対する熱い思いが語られています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 1章24節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

 きょうの箇所は内容的には先週取り上げた1章23節から発展しています。23節でパウロは「信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れてはならない」とコロサイの教会の人々に勧めています。そしてその福音に仕える者とされているのが自分であると、パウロは自分をそう紹介しています。
 きょう先ほどお読みした箇所では、そのことを受けてパウロは自分に与えられた福音宣教の使命について熱く語ります。

 先ずパウロは24節でこう語ります。

 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」

 この言葉は色々な意味で理解するのには難しい要素を含んでいます。ただ、24節を挟んでいる前後の言葉から明らかなように、ここでパウロが語っている苦しみとは福音宣教というパウロの務めに関わる苦しみであることは明らかです。パウロは福音に仕える者とされ、神の言葉を余すところなく伝えるという務めを神からいただいているのです。
 福音宣教に関わる具体的な苦しみについて、パウロは他の手紙の中でもっと詳しくこう記しています。

 「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度。一昼夜海上に漂ったこともありました。」(2コリント11:23-25)

 しかし、その苦しみの大きさにも関わらず、この苦しみを「あなたがたのための苦しみ」と呼び、その苦しみを喜んでいるとさえパウロは言うのです。そして、その場合の「あなたがた」というのは単にコロサイの教会の信徒たちばかりではなく、キリストの体、つまりキリスト教会全体の益をも視野に入れているのです。パウロの働きは一教会の利益のためでもなければ、ましてやパウロの利得のためでもありません。パウロは神の言葉の宣教によって教会に奉仕するものであると自分のことを描いています。

 ところで、パウロは伝えるべき神の言葉を、26節では「秘められた計画」と言い換えています。人の目からは隠されていた奥義が、今や明らかにされたのです。その奥義・秘められた計画とはキリストご自身に他ならないとパウロは言います。その場合のキリストというのは、ユダヤ人ばかりではなく、異邦人にも信仰によって救いの恵みをあたえることのできるキリストです。そういう意味でパウロは「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるか」と記しているのです。
 今や時が満ちて、秘められていた計画が明らかにされ、ユダヤ人も異邦人も区別なく救いを受けることができるようになったのです。そのことこそがパウロが伝える福音の中心点です。従ってキリストこそが「栄光の希望」であり、福音宣教の中心なのです。

 このキリストについてさらにパウロは「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」と述べています。

 パウロの宣教の目的は先ほども言いましたが、教会全体の益のためです。もっと具体的に言えば、キリストの体である教会を構成している一人一人が、キリストと結び合わされて完全な者となることです。

 パウロがこのことを特に述べているのは後に取り上げられる、コロサイの教会を襲っている間違った教えのことを意識してのことでしょう。神の御前に完全なものとなるという目標の設定は誰もが目指すところかもしれません。しかし、その実現は福音の中心であるキリストを通してだけ実現することができるものなのです。

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