ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
かつてキリスト教会最初の殉教者ステファノがユダヤ人から訴えられた理由はこう言うものでした。
「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません」
ここにはキリスト教の教えがどのようにユダヤ人たちの目に映っていたのかということが示されています。その一つは神殿で行なわれるもろもろの儀式に対してキリスト教の教えがいかに冒涜的であるのか、もう一つは律法に対してキリスト教が持っている教えがどれほど間違ったものであるのか、ということです。特に律法を巡る理解は、生まれたばかりのキリスト教会にとって、自分たちの立場を正しく弁明する必要のある大きな問題でした。また、そのことは福音を正しく理解することと密接な関係があったのです。
きょうこれから取り上げようとしている箇所でも、パウロは律法の役割についての理解をキリスト教の立場から明らかにしています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 3章15節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
きょうの箇所は先週取り上げた「誰がアブラハムの約束を受け継ぐ者であるのか」という問題にかかわっています。それはユダヤ人と異邦人という区別ではなく、アブラハムと同じように信仰によって神と結びつく者こそ、がアブラハムの約束を受け継ぐ真の子孫であるというものでした。兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。