聖書を開こう 2008年1月3日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 律法の役割(ガラテヤ3:15-25)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 かつてキリスト教会最初の殉教者ステファノがユダヤ人から訴えられた理由はこう言うものでした。
 「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません」
 ここにはキリスト教の教えがどのようにユダヤ人たちの目に映っていたのかということが示されています。その一つは神殿で行なわれるもろもろの儀式に対してキリスト教の教えがいかに冒涜的であるのか、もう一つは律法に対してキリスト教が持っている教えがどれほど間違ったものであるのか、ということです。特に律法を巡る理解は、生まれたばかりのキリスト教会にとって、自分たちの立場を正しく弁明する必要のある大きな問題でした。また、そのことは福音を正しく理解することと密接な関係があったのです。
 きょうこれから取り上げようとしている箇所でも、パウロは律法の役割についての理解をキリスト教の立場から明らかにしています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 3章15節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

 きょうの箇所は先週取り上げた「誰がアブラハムの約束を受け継ぐ者であるのか」という問題にかかわっています。それはユダヤ人と異邦人という区別ではなく、アブラハムと同じように信仰によって神と結びつく者こそ、がアブラハムの約束を受け継ぐ真の子孫であるというものでした。
 信仰によって義と認められ、律法によっては誰一人として義と認められないのだとすれば、当然、律法の役割は何であったのかと言うことが問題になります。番組の初めのところで述べたように、ユダヤ人に対してこのことを正しく弁明しなければ、キリスト教こそモーセの律法を汚す教えと言うことになってしまうでしょう。

 そこでパウロは先ず、アブラハムに与えられた祝福の約束と律法との関係を明らかにします。パウロは人間の遺言を引き合いに出して、一度法律的に有効な遺言が作成されたならば、だれも後からそれを変更したり無効にしたりすることはできない事実を指摘します。パウロの言いたいことは3章17節にあるように、遺言でさえ変更がきかないのであれば「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです」。つまり律法はアブラハムに対して与えられた祝福の約束を変更するために与えられたのではないと言うことです。
 もちろん、この議論がただちにユダヤ人たちを納得させたかというとそうではないと思われます。納得どころかかえって律法を巡る理解の溝を深めただろうと思われます。というのも、ユダヤ人たちの律法の理解によれば、律法は天地創造の前から存在ししているからです。ただ、少なくともパウロは律法が与えられたことを歴史の中の文脈の中において理解し、アブラハムに与えられた約束との歴史的な関係を考察しているのです。

 それでは律法は何のために与えられたのか、パウロはこう述べます。

 「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。」

 神が約束した「あの子孫」…つまりキリストがやって来られるそのときまで、違反を明らかにするために律法が与えられたというのです。律法は人を義とするために与えられたのではなく、かえって人の罪を明らかにし、人が罪の支配のもとに置かれていることを鮮明にするために与えられたのです。

 パウロはまた律法の役割をこうも述べています。

 「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです」

 パウロは先週学んだ個所で、キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださったと述べました。つまり、律法は人を正しいものとするのではなく、返って人にその罪を明らかにするものであるので、律法にすがればすがるほど、身の上に下される呪いも増し加わるのです。このようにして律法は自分の上にくだる呪いをわたしたちに悟らせ、わたしたちを呪いから解放してくださるキリストのもとへと導いていく役割を果たしているのです。つまり、律法は神がアブラハムに与えた祝福の約束を変更するどころか、その約束がキリストによって確実に実現されるために、人々をキリストのもとへと導いていく働きをもっているのです。

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