おはようございます。芸陽教会の宮武輝彦です。
今年も、イエス・キリストがわたしたちのためにお生まれになったことを感謝して覚えるクリスマスが近づいてきました。クリスマスは、キリストをわたしたちの救い主と認めて、感謝を共に分かち合う喜びの日です。世界の多くのキリスト教会では、今日から12月25日までのクリスマスの間、アドベントと呼んで、イエス・キリストがお生まれになった日を待ち望みながら、礼拝をささげます。
天のみ使いによってマリヤは、聖霊によってイエスをその身に宿すことを知らされましたが、その六カ月前に、マリヤの親類であったエリサベトにも、ザカリヤとの間に男の子が生れることをみ使いによって告げられていました。エリサベトは年をとっていましたので、み使いからこのヨハネの誕生の予告を受けたザカリヤは、そのみ告げを信じることができず、口が利けなくなってしまいました。
イエスをその身に宿す知らせを受けたとき、マリヤは、み使いから、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。」と聞かされ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と願い、ヨセフを知る前に、聖霊によって男の子をその身に宿すことを受け入れます(ルカ1:36-38)。そして、マリヤは、ザカリヤの家を訪ね、エリサベトに挨拶をするのです。マリヤの挨拶をエリサベトが聞いたとき、エリサベトは聖霊に満たされて、マリヤとその胎内の子を祝福して声高らかにこう歌いました。
「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:43-45)と神さまの祝福を分かち合って、喜びを新たにしたのです。
このとき、マリヤも神さまを賛美してこう言いました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者というでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(ルカ1:47-49)「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れるものに及びます。」と。
このマリヤの賛美は、そのときだけのものではなく、それからのち、今も、そしてこれからも、もたらされる神さまの約束でもあります。それは、このマリヤが讃えて歌った主の憐れみとは、罪とその悲惨の中にあって、悩み苦しみの中にあるすべての人々のために与えられようしている救いの恵みであるからです。
イエス・キリストがこのわたしたちの住む世界のただ中にお生れになってから二千年の間、このマリヤが信じ、望み見た大いなる祝福は、年ごとに、クリスマスの恵みとして祝われ、その喜びは多くの人々と分かち合われてきました。
今年も、神さまがわたしたちのためにお与えくださった、救い主イエス・キリストの誕生に感謝して、マリヤのように、神さまの救いの約束がわたしたちの住むこの世界のただ中に実現したことを喜びたいと願っています。
「この憐れみによって、高い所からのあけぼのの光」がわたしたちを訪れ、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」、わたしたちの「歩みを平和の道に導く」ことを祈り求めながら、今、み言葉を聞くすべての人々の上に、いよいよ、キリストの祝福と慰めが満ちあふれますように、お祈りいたします(ルカ1:78,79)。