おはようございます。芸陽教会の宮武輝彦です。
あるとき、イエス・キリストは、天の国をぶどう園にたとえてこのようなたとえ話をされました。
ぶどう園の主人は、園で働く人を求めて町に出かけて行きました。そして、一日に、一デナリオン、今のお金に換算して一万円の約束で、朝早く夜明けのころに、また、朝の9時に、12時に、そして、午後の3時、さらには、夕方の5時にも働き人をつぎつぎと雇ってくるのです。それらの人々は、みな何もしないで広場で立っている人々で、だれも雇ってくれない人々でした。そして、日が暮れて、ぶどう園の主人は、働き人一人一人に、賃金をはらってやることにしました。
このとき、主人は約束のとおり、最後に来た人から順番に賃金を払うように監督に命じました。そして監督は、最後に来た人たちから順に約束のとおり、一デナリオンずつ賃金を払い、最初に雇われた人たちにも、その後から来た人たちにも、同じ賃金を払ったのでした。
すると、最初に雇われた人たちは「最後に来た人は、一時間しか働いていないのに、どうして、まる一日暑い中を辛抱して働いたわたしたちと同じなのですか。」と主人に不平を言ったのでした。しかし、このとき、主人はその一人に答えて、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と言ったのでした。(マタイ20:1-14)
このたとえ話を聞いてどのように思われるでしょうか。この働き人の言うとおり主人はもっと賃金をはずんでやるべきだったのでしょうか。それとも、主人のいうとおり、約束のとおりであることが大切なことなのでしょうか。わたしたちの感覚からいえば、働き人の不平ももっとものような気がしますが、このたとえ話の意図は、この主人が、わたしたちを天の国へ招こうとしている神さまの思いを伝えることにあります。
この意図を知ってたとえ話に聞くとき、このぶどう園の主人は、とても、憐れみ深い方であることを知ることができます。それは、朝早くから働いていた人にも、働きたくても働けず何もしていなかった人にも、神さまは憐れみ深い御方として声をかけてくださり、その労働に見合った賃金というよりも、その労働者との約束を誠実に守る御方であることがこのたとえ話によって明らかにされているからです。
つまり、神さまのことをわたしたちが正しく知るために大切なことは、わたしたちは、神さまがわたしたちにどれほどの関心と熱意をもっておられるかを知るということなのです。ですから、このぶどう園の主人は、不平をもらした働き人にさらにこう言いました。
「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか。」と。
このぶどう園は、天の国の祝福であり、救いの恵みそのものがたとえられています。それは、むしろ、労働によって与えられるものではなく、主人である神さまの祝福に満ちている場所です。
神さまの祝福によって、神さまのことを知らないままでいた人々が招かれて、神さまを正しい方と認めてその祝福を分かち合うことができるのです。この神さまの祝福にあずかることが、イエス・キリストをわたしたちの救い主として知るということなのです。わたしたちを憐れんでくださっているイエス・キリストは、今も、この天の国の祝福に招き入れるために、ひとりびとりに呼びかけておられます。
どうぞ、この呼びかけに答えて、キリストの救いの祝福にあずかり、その祝福を人々と分かち合う喜びを共にしてくだされば幸いです。