おはようございます。芸陽教会の宮武輝彦です。
最近、きずなであるとか、コミュニティという言葉をよく聞くようになりました。人々が新しいきずなを求めて、お互いに助け合って生きることの回復が求められている時代ということもできるでしょう。人間は生まれながらだれかとつながって生きるものです。生れたばかりの赤ちゃんは、お母さんに抱かれ、親しみ深い交わりの中で育まれていきながら、子どもは親から自立しながら、少しずつ、周りの人々との関係の中で、そのつながりを深めていく経験をしていきます。
ところで、キリスト教会のはじまりは、人間同志の交わりからの出発ではなく、むしろ、イエス・キリストとの結びつきからはじまりました。聖書においてこのキリストとの結びつきは、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(ヨハネの手紙一 1:3)と言われています。イエス・キリストをこの世の中にお与えくださった父なる神さまと神さまのひとり子イエス・キリストとの交わりこそが、教会という一つの交わりなのです。
それは、キリストによる新しい交わりのはじまりを告げるものです。ですから、イエス・キリストご自身、ぶどうの木にたとえてこのように言われました。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:1-4)と。
ちょうど、ぶどうの木のようにイエス・キリストという幹がしっかりと広がっていくとき、ぶどうの実のようにつながって生きるように招かれています。このイエス・キリストにつながってぶどうの実を豊かに実らせるとは、神さまの祝福に満ちた栄養をしっかりといただいていくことです。目に見えない神さまをわたしたちが心から信じるために大切なことは、神さまの言葉に触れていくこと。そして、わたしたちの心にその言葉が深く感じられていくほどに、味わっていくことです。
ですから、神さまの言葉を味わうことを求めて、神さまを信じて生きようとしていた人はこう祈りました。聖書の詩編34編では、「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」(詩編34:9)と呼びかけられ、詩編119編では、「あなたの仰せを味わえば わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。」と神の言葉を知ることが味わい深い、甘いものとして伝えられています。
そして、このみ言葉を味わっていくために、神さまを信じる人々の交わりの中に入っていくことが大切です。
今、このようにして、ラジオやインターネットを通して神さまの言葉を聞くこと、讃美歌を聞くことによっても、わたしたちは、神さまの言葉を味わっていく経験をしています。そして、少しずつ、その経験を重ねていくことによって、神さまとのつながりを深められていきます。そして、イエス・キリストは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)と約束してくださいました。神さまの言葉を聞くことと、お祈りをささげること、このことが神さまとの交わりの基本にあることです。
キリスト教会の礼拝も、この神さまの言葉を聞くことと、お祈りをささげるという交わりの中にあります。今朝、神さまのみ言葉を聞いているあなたも、キリストとつながって生きる喜びを新たにされて、教会の礼拝に導かれていきますように、心よりわたしも願っています。