キリストへの時間 2008年11月9日(日)放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

宮武輝彦(芸陽教会牧師)

宮武輝彦(芸陽教会牧師)

メッセージ: 神さまを信じて生きることはすばらしい

 おはようございます。芸陽教会の宮武輝彦です。
 今から、1600年前ほど前の387年にイタリヤのミラノで、33才の時に、洗礼を受けたアウグスティヌスというクリスチャンは、「告白録」というとてもよく知られている信仰の体験を書き残しています。このアウグスティヌスは、この「告白録」の中で、その母モニカと一緒に神さまにお祈りをささげたことをこのように書きました。

 「神さまを信じて生きることはすばらしい。この世のいかなる快楽にもまさる。創造者なる神、最高の、真の、善、美なる神を讃え、神と交わり、神の言葉にしたがって生きることこそ、真の至福なる生であろう。人間は罪人であるが、神はあわれみ深く、救い主で、いつも人間を愛し、慰め、希望を与える。この神の恵みを味わい、霊に満たされて生きることこそ人間最高の喜びである。」と。

 このように、アウグステヌスとその母モニカは心を合わせて祈りを一つにするということを良く知っていました。
 わたしたちは、神さまという御方を思いめぐらすときに、このような親しみを覚えることがどのくらいあるでしょうか。
 聖書の詩編139編に、このような神さまの言葉があります。

 「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」
 また、「曙の翼を駆って」つまり、太陽の光に乗って走るように、「海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」と言われています。

 神さまは決して遠い御方ではなく、とても身近な御方として覚えられています。それでは、わたしたちはどのようにして、これほどまでに、神さまを身近に覚えながら、どこにいても、神さまとの交わりをもつことが最高のものと言えるようになるのでしょうか。
 その一つの手がかりが、人間が本当に弱くはかないものであることを受け入れるということです。聖書では、人間のはかなさについて、それは、まるで、草の花のようであると言います。それは、単なる宿命ではなく、すべての人間が神さまの前に罪を負うものとなったためであることも聖書は教えています。
 詩編90編でもこう言われているとおりです。

 「あなたは人を塵に返し 『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には一時にすぎません。」「あなたはわたしたちの罪を御前に隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り人生はため息のように消えうせます。」(詩編90:3、4、9)

 このように神さまの働きの広がりを思うときに、人間は、その限界を知らされるのです。しかしながら、この自覚は、単なる人生のはかなさを知って、悲しんだり、将来対して絶望することではなく、むしろ、一日一日の生き方を問い直すことに通じるものです。詩編90編では続いてこのように祈りがささげられています。

 「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」と。(詩編90:12)

 罪と死が、神さまの怒りにおいて裁かれるものであることを知ることは、人間の生まれながらの性質においては、受け入れがたいものですが、神の裁きをその身に負って十字架に死んでくださったイエス・キリストを謙虚に受け入れるとき、わたしたちはかえってこのように祈るように変えられるのです。
 「神さまを信じて生きることはすばらしい」と言ったアウグスチヌスの告白のように、今日も、あなたの中に、神さまの御言葉の慰めがあり、救い主キリストのもとに導かれますように、心より祈っています。

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