おはようございます。山下正雄です。
今月は聖書の面白さについてお話しています。分かっても分からなくても、とにかく旧約聖書の最初の30ページでも40ページでも、実際手にとって読んでほしいというのが私の願いです。聖書の世界に深い共感を覚えるのも、逆に聖書とはくだらないものだと反感を覚えるのも、それからゆっくりして欲しいと思います。どっちにしても聖書と向かい合うことで、確実に自分の成長に繋がることは確かなことです。
何事もそうだと思いますが、食わず嫌いということほど、自分の人生をつまらなくしているものはないと思います。
さて、聖書というものは、ほとんどがイスラエル民族の歴史書を読んでいるようなものだ、ということを先週お話しました。どの民族でもそうだと思いますが、その民族の歴史を書くときには、その民族の誇りがそこには記されるものです。自分たちの視点から出来事を見つめ、自分たちの栄光ある姿が描かれるものです。自虐的な歴史というものは民族の士気を低めるという理由から、あまり好まれるものではありません。歴史というものはそういう意味では歴史を書く人によって解釈され、作られるものなのです。
相対化して言えば、聖書もそうした歴史書の一つであるといえるかもしれません。しかし、もしそれだけならば、よその民族の人間が読んで面白いはずがありません。
しかし、実際にはユダヤ民族はもちろんのこと、ユダヤ民族以外の人々も、今日にいたるまで数多くの人々がこの聖書に魅了されてきたのです。
それはなぜかというと、聖書は一民族の歴史のようでありながら、一民族の視点を超えているからです。唯一まことの神の御心に沿うか沿わないか、その関心が聖書には貫かれているのです。どんなに富と栄華を国にもたらした王様でも、神の正義をないがしろにすれば、容赦なくその悪事が指摘されるのです。強い国が出現して自分たちの国を滅ぼせば、普通ならその国は自分たちの敵として、民族の歴史のページに刻み込まれることでしょう。しかし、聖書の歴史ではそうではないのです。自分たちの民族にとって敵か味方かではなく、神の正義にとって敵か味方かが問題とされているのです。そういう意味ですべての民族が神の前に相対化されてしまうのです。
すべての民族が相対化されてしまうので、人間の汚さやどろどろとしたものが、何の遠慮もなく包み隠さず記されているのです。そしてどんな民族にも共通したものが描かれているからこそ、だれもが共感を覚えるのだと思います。
しかし、結局人間、古今東西を問わずどこの民族でも一緒なのだという連帯感だけで聖書がここまで読み続けられてきたか、というと決してそれだけではないはずです。解決策も解決への希望もなく、ただ醜い現実だけが描かれていたとしても、それだけでは人々を魅了しません。
すべての人間が抱えている問題を示しつつ、それを超えて余りあるお方が、この問題の解決に確実に手を差し伸べて下さっている事実を聖書は語っているのです。そこには希望と明るい見通しがあるのです。そこに多くの人たちは単なる民族の歴史ではない聖書の魅力を見出しているのです。
自分たちを美化することは簡単です。自分たちを必要以上に卑下することもまたそれ以上に簡単です。聖書は人間の歴史を美化も卑下もせず、あまりにも率直に描きながら、同時に将来への希望の道筋も描いているのです。