おはようございます。山田教会の牧田吉和です。今朝も、心を静めて聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
私たちの人生にはショックとあまりの苦しさに、言葉もなく、祈ることさえできないという場合があります。これは神を信じる私たちキリスト者の場合でさえその様なことは起こりうることです。
私自身は牧師であり、皆様を信仰に導く立場にある者ですが、そのような切羽詰った経験をしたことがあります。
わたしの次男が3歳の時、母親の手を離れて道路に飛び出し、車に10数メートルも跳ね飛ばされたことがありました。意識不明になり、お医者さんからは命が助かるかどうかは5分5分だと言われました。私はどこでもいつでも眠れるのが自慢でしたが、この事故の夜は死線をさ迷う小さな息子のことを思うと、一睡もできませんでした。それだけでなく、胸が痛くなるというのは「本当に実際に胸が痛くなることなのだ」ということも初めてわかりました。牧師ですから、祈る方法もこのような場合の祈りの言葉も知っているはずでしたが、どう祈って良いのか、言葉が出てきませんでした。ただただ呻くように「神様、助けてください。神様、助けてください」と呼びつづけるほかなかったのです。
息子自身は、時間はかかりましたが意識が戻り、いくらかの後遺症は残りましたけれども、幸い奇蹟的に助かりました。しかし、その時の経験から、今朝お読みしました聖書の言葉の持つ慰めを深く理解するようになりました。聖書はこのように語っています。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
この聖書の言葉は、どのような言葉で祈って良いかわからない時にも、御霊ご自身が私たちを助け、とりなしてくださると教えています。御霊とは聖霊なる神のことを意味しています。
聖書の神はただ高く遠くにおられる神にとどまりません。聖書の神は、御霊なる神として、わたしたちの内に住み込み、共にいて下さり、私たちを一番深い根っこの部分から支えてくださるのです。しかも、どう祈ったらよいかわからない時にも、私たちの重荷を共に担い、私たちの呻きを共に呻きつつ、私たちに代わって執り成しの祈りをささげてくださるのです。私たちの内におられる聖霊なる神は、私たちの苦しみが何であり、何が問題なのか、何が必要なのかをよく御存じです。ですから、聖霊なる神は、最も必要な祈りを最善の仕方で私たちに代わって執り成しの祈りとしてささげ、私たちを助けて下さるのです。
今朝、同じローマ人への手紙5章5節は次のように言っています。
「私たちによって与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
神の愛はイエス・キリストの十字架によって示されただけではなく、聖霊によって、私たちの内に注がれているのです。私たちの内に住み込んでくださる聖霊なる神は、私たちを愛して、どう祈ったらよいかわからない時にも、私たちと共に呻きつつ、私たちのためにとりなし、最善に導いて下さいます。
人間は決して強い者ではありません。人は弱さを持つ存在です。思いもよらない出来事で言葉を失ってしまう場合もあります。あるいは自らの肉体や精神の限界の中で祈る力もでてこないことも起こります。意識さえ失う事もあります。
しかし、私たちは失望しません。聖霊によって神の愛が私たちに注がれているからです。そして、聖霊なる神は、私たちを極みまで愛し、呻きつつ執り成し、支え、私たちを神の国へと確かに導いて下さるのです。