おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書詩編の中に「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。 主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。」と記されています。
人は生きていくときに、様々な重荷を背負い込みます。自分の将来の心配事。子供の健康の不安。仕事の上で抱え込んだ責任。ひょんな事から他人を傷つけてしまったことへの後悔の念。気がついたら背中には背負いきれないくらいの重荷でいっぱいです。
一つおろしたと思った重荷も、また新しい重荷が背中に乗っかってきて、いつすべての重荷から解放されるかと思うくらいです。将来の夢だったことが実現すれば、今度はその一つ先のことで不安を抱いたりします。子供を健康に育て上げた頃には、今度は自分の健康が心配な年齢になります。仕事の責任から解放された時には、その後の人生をどう生きるかで悩み始めます。
背中にはいつも重荷がついてまわり、いつまでたっても解放されることはないのではないかと思いたくもなります。もしあなたが自分の人生を振り返って。そんなふうに感じていらっしゃるのでしたら、聖書の神こそ重荷に喘ぐあなたを支えてくださるお方です。
聖書は「あなたの重荷を主にゆだねよ」と言っています。
人生の重荷や心配事の大半は人間にはどうすることもできないものです。イエス・キリストは「寿命のことで思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とおっしゃっています。確かに寿命のことなど人間の手でどうこうできるものではありません。なるほど健康は管理することができますが、しかし、どんなに健康を管理しても、寿命についての心配がなくなるわけではありません。
将来の暮らしのために今から備えることはできますが、しかし、その将来の予想が予想外のことでまったく違ったものになってしまうこともあります。そんな先の先のことを次から次へと考えていたのでは、何も手が出せなくなってしまいます。
人間の手ではどうすることもできないことについては、神にゆだねよと聖書はわたしたちを促しているのです。自分ではどうすることもできないことをいくつも抱えていたのでは、歩める道も歩めなくなってしまいます。
聖書は「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる」と語っています。
聖書の神に重荷を任せても大丈夫なのは、主である神があなたを支えて下さるからです。自分で重荷を支えようと必死になる必要はないのです。支えてくださる神を信じて、重荷を神にゆだねればよいのです。
イエス・キリストはおっしゃいました。
「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ6:30)
鳥や花でさえも豊に養ってくださる神だとすれば、なおさら人間のことを大事にしてくださらないはずがあるだろうかと問い掛けています。重荷に押しつぶされて自分らしく生きることができないよりは、神に重荷を全部おまかせして、活き活きと一歩一歩を歩む方がはるかに人間らしく豊な生き方なのです。神は重荷に喘ぐ一人一人に対して、その重荷をわたしが背負ってあげようと招いて下さっているのです。
どうぞ、背負いきれない重荷をすべて聖書の神の手に委ねてみてください。きっと主はあなたを支えてくださいます。