おはようございます。山下正雄です。
聖書の神はどこにでもおられるお方です。といっても「どこにでもいるような平凡な神」という意味ではありません。人がどこにいようともそこに神もいらっしゃるのです。聖書の神の手が届かないような場所はないのです。
それを難しい言葉では「神の遍在性」といいます。遍在とは「遍く在る」ということです。いつどこにでもいることです。ラテン語ではオムニプレゼンティア(omniprasentia)といいますが、「オムニ」とは「すべて」という意味です。「プレゼンティア」とは「存在すること」です。すべての時間と空間に神がいることです。
神の遍在性は当たり前のことのようで、実はそうではないのです。誰もがそうは信じていないのです。それは様々な宗教を観察してみると明らかです。
古今東西を問わず大抵の宗教はその場所に行かないと神々に会うことができません。神々に出会いたいならば、こちらから特定の場所に出向いていかなければならないのです。それは山であったり丘であったり森であったり、とにかくその場所と神々の存在は結びついているのです。世の中の宗教の大半は神の遍在性とは無縁なのです。
もっとも神がどこにでもおられるというのは、考えようによっては人間に都合が悪いかもしれません。特に悪いことをする時には、できるだけ神に知られないようにと思うのが人間です。神のいない場所でこっそり悪事を働くことができると考えるのが浅はかな人間の知恵です。
しかし、そうはいっても人間は神の遍在性を願っているのです。「神も仏もない世界」など考えたくないのが人間の心に染み付いた宗教的な感性です。悪人が「お釈迦様でも気がつくめぇ」とほざきながら悪事を働いたとしても、必ず正義の神がご覧になっていると信じるのが人間の宗教的感性です。
けれども、神の遍在性は人間の妄想では決してないのです。むしろ逆で、まことの神がいつどこにでもいらっしゃるからこそ、人間はそのことを感じているのです。
旧約聖書には、まことの神がどこにでもいらっしゃるこの恵みを高らかに歌った詩編があります。詩編139編がそうです。
「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。 どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。」
この詩編の作者はそういうどこにでもいてくださる神を心から喜びとしているのです。神が知らない世界はありません。神がいらっしゃらない世界はないのです。どこに行っても神の御手がともにあるのです。
「曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
もし、まことの神の力が及ばない世界があるとしたら、それこそ恐怖以外の何ものでもありません。聖書の神はいつどこにでもいてくださるお方なのです。
たとえわたしたちがまことの神を忘れて過ごしていても、そこに神はいてくださるのです。神のいてくださるところに恵みと祝福も伴うのです。たとえあなたがどこにいようとも、聖書の神と出会うことができるのです。たとえあなたがいつどこで祈ろうとも、神はそのところに共にいて下って、あなたの祈る祈りに耳を傾けてくださっているのです。
聖書の神様はいつでもどこにでもいらっしゃってくださいます。あなたが知っていて聖書の神が知らない悲しみも苦しみもないのです。