おはようございます。山下正雄です。
「あなたの希望は何ですか」という質問は、大抵の場合、将来なりたいものの希望や職場での条件の希望を尋ねる時にきく質問です。あるいは欲しいものの希望を聞くということもあります。「何か食べたい晩ご飯の希望はありますか」という聞き方もあるでしょう。
しかし、そういう希望を励みに、そういう希望に支えられて一生涯生きていくということは先ずありえないことです。晩ご飯の希望はその日の晩ご飯の時までのことです。将来なりたいものの希望は、せいぜい大人になるときまでの希望です。
ほんとうの希望というものはそんなにすぐには手に入れることのできないものです。けれども、諦めるよりほかないようなものでもありません。諦めなければならないようなものであるならば、それがその人を生涯にわたって支えることはできません。簡単に手に入れることができても希望にはなりませんし、まったく手に入らないことが確実でも希望にはならないのです。しかも、何の希望もない生き方は人間としてあまりにも輝きがありません。
「わたしには生きていく上での希望など何もありません」と聞いたら、それは本当に文字通り絶望的な人です。もちろん、富みや名誉を望まないという生き方はあるかもしれません。しかし、その人が希望のない人生を送っているわけではないはずです。
そう考えてみると、「あなたの希望は何ですか」という質問にほんとうの意味で答えることができるかどうか、これは一人一人に問われていることのように思います。
今は目先の希望を本当の希望と思って、その積み重ねで自分には希望があると思って生きているのかもしれません。確かにそんな希望でもあるうちはまだ活き活きと生きていけるのかもしれません。しかし、そういった希望があまり意味をなさなくなってきたときにどうするつもりなのでしょうか。
いえ、この20年間ほどの日本はまさに自分を支える希望が何であるかを嫌というほど人々に考えさせる時代であったと思います。なぜなら目先の希望でさえ怪しくなった時代だからです。エスカレーター式に次々希望に手が届くようなことは少しも保証されなくなったからです。一流会社に務めたからと言って、何の安心の材料にもならなくなってきています。老後の生活を支えるはずの年金制度もどうなるのか先行きが不安です。「親方日の丸」といっていた国の財政でさえも毎分何百万円という勢いで借金が増えつづけています。
いたずらに不安をあおるつもりはありませんが、こんな不安に振り回されて生きているとしたら、ほんとうに生きる意味を見失ってしまいそうです。
「あなたの希望は何ですか」…この問いに向き合うことは避けて通ることはできません。
押し付けがましいことは言いませんが、聖書の言葉を一箇所だけご紹介させてください。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)
聖書の神はわたしたちが希望に満たされて生きることを望んでいらっしゃいます。どうか希望の源である神が不安からわたしたちを解き放ち、喜びと平和でわたしたちの心を満たしてくださいますように、心からお祈りします。