おはようございます。山下正雄です。
「神様」という言葉を聞いたときに、ラジオを聴いていてくださっているあなたはどんなイメージを真っ先に思い浮かべるでしょうか。「触らぬ神に祟りなし」というイメージでしょうか。あるいは、「苦しい時の神頼み」に出てくる神様でしょうか。もし、神様に何かの修飾語をつけて呼ぶとしたら、どんな言葉があなたのイメージで一番ぴったりくるでしょうか。「優しい神様」でしょうか。それとも「恐ろしい神様」でしょうか。「ユーモラスな神様」でしょうか。
新約聖書の中に出てくるほとんどの手紙を書いたパウロという人は、聖書の神を「慰めを豊かにくださる神」(2コリント1:3)と呼んでいます。
人生には悲しいこと、苦しいこと、辛いことがつきものです。自分自身の身の上に起ることで辛い思いをすることもあれば、家族や親しい友人のことで心を痛めることもあるでしょう。どうすることもできないくらい理不尽な出来事に直面して悔しい思い悲しい思いをすることもあるでしょう。
聖書の神を「慰めを豊かにくださる神」と呼んでいるパウロも実に波乱万丈の人生を送った人でした。クリスチャンになる前は、熱心なユダヤ教徒としてその道を極めるほどの人物でした。自分のことを「ヘブライ人の中のヘブライ人」「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3:5-6)と語ることができるほどの人だったのです。
そのパウロがキリストと出会い、クリスチャンとなってキリストの教えを伝える者になったことも人生の大転換ですが、そのことのために味わった苦しみも数多くありました。
そのパウロはキリスト教の宣教者となった自分を振り返ってこう言っています。
「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度。一昼夜海上に漂ったこともありました」(2コリント11:23-24)
また、こうも言っています。
「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」(2コリント1:8-9)
これらのことは決して誇張ではありません。パウロの体験した苦しみは文字通り死と隣り合わせのものでした。
けれども、パウロはそのような苦しみの中で、「慰めを豊かにくださる神」に出会ったのです。いえ、そればかりではありません。自分が慰められるばかりか、他の人をも力づけるほどの豊かな慰めをいただいたのです。
パウロは言います。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(2コリント1:4)
今、もし耐えられない苦しみや悲しみの中で辛い思いをしていらっしゃるのでしたなら、ぜひ豊かな慰めを与えてくださる聖書の神のもといらしてください。あなた自身が豊かに慰められ、きっとあなたを通して神は他の人々をも慰めてくださいます。。