おはようございます。山下正雄です。
「神を信じますか」という質問は、受け取る人によって一体どんな神をどのように信じるのか、その内容は千差万別です。きっとこの番組を聴いてくださっているあなたも、「神」という言葉を聞いて何か神に対するご自分のイメージを持っていらっしゃるのだと思います。
さて、聖書の中に登場する神は一体どんな神なのでしょうか。残念ながら聖書の中には神がどんなお方であるのか、その厳密で完璧な定義というものは記されていません。それもそのはずです。限られた人間の言葉で完璧に定義できるような神であるとするなら、それは人間と同列の神に過ぎません。こんな小さな人間の頭で理解できてしまうような神だとしたら、ずいぶんちっぽけなお方だといわざるを得ません。人間は人間同士のことでさえ完璧な理解をなすことができないのですから、まして、神のことなど理解し、定義できるはずもありません。
しかし、逆に聖書の神は人間世界を超越していて、人間の手も思いも届かない、人間と無縁の世界に住んでいらっしゃるお方でもないのです。もし、知ることができない神であるのなら、信じることもできないでしょう。むしろ聖書の神は歴史の中でご自分をお示しになり、限られた人間の言葉でご自分をお語りになることをよしとされたお方なのです。言い換えれば、聖書の神は聖書の神ご自身がお語りになる限りで、わたしたちも知ることができるお方なのです。
その聖書の神はあるときご自分をこんな風に紹介なさいました。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)
この聖書の言葉は日本語に翻訳するのも難しい表現です。別の翻訳聖書では「あたしは有って有るもの」と訳されています。どちらにしても言おうとしているその意味は誰にでもわかりやすいとはいえません。
いずれにしても、その文章や単語の抽象的な意味そのものよりも、この言葉が誰にどんな状況の中で語られたのか、言い換えればその状況の中で神はご自身をどんなお方であるとその人物に語り掛けたかったのか、そのことが重要なのです。
この言葉は神がモーセを召し出して、エジプトからの脱出を導く指導者としてたてようとした時に語られた言葉です。モーセは神の命令をすぐさま受け入れることはできませんでした。それもそのはずです。なぜならエジプトは大きな国であったのでモーセの力でそれに対抗することはとても考えられなかったからです。おまけにモーセは自分の仲間に絶大な信頼を得ていたというわけでもなかったのです。どう考えても自分が指導者になることは力量不足です。ですからモーセは答えたのです。
「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
このモーセに対して神はご自分を「共にいるもの」「有ってあるもの」であるとお示しになったのです。聖書の神はここに存在し、共にいてくださるお方なのです。旧約聖書はこのモーセの話をはじめとして、力強くここにいてくださる神を語りつづけているのです。
聖書の神は抽象的で雲を掴むようなわけの分からない存在なのではありません。歴史の中で働いてくださり、ここにいてくださることを力をもって示してくださるお方なのです。