おはようございます。高知教会の久保浩文です。
昔から、「二月逃げる、三月去る」と言われています。毎年この時期になると、どういうわけか、何かに追い立てられるようにして慌しく毎日が過ぎ去ってしまいます。職場にあっては、内部異動や転勤、家庭では子供の受験など、家族全体が落ち着かなくなる季節です。私も、「あっという間に二月が過ぎた、もう三月か」と毎年のようにため息をつく者の一人です。そういう時に我に返って考えてみると、「私のこの一ヶ月の労苦は一体何だったのだろう」と思うことがあります。皆様もそう思われることがないでしょうか。
「私たち人間は、なぜこうも、あくせくと働くのでしょうか。いや、働かざるを得ないのでしょうか。」このような質問に対して多くの人は、「生きて行くため、家族を養っていくためには当然のこと、仕方の無いことだ」と答えるでしょう。ある人は、「人生を楽しく、趣味や娯楽に生きるために、その資金稼ぎのために働くのだ」と答えるかもしれません。その一方で、職場での様々な競争に打ち勝って、一つの社会的な地位や名誉を手にすることを目標としている方もいらっしゃるでしょう。しかしその反面、働き盛りの方の予期しない突然死、過労死も少なくありません。「一つしかない命なのに何故・・・?」と心を痛めるのは、私だけではないでしょう。
その昔、イエス・キリストのもとに来る大勢の人のほとんどは、イエスから自分たちの生活を満たすもの、胃袋を満たすパンを頂けるものと期待していました。実際、イエス・キリストは、かつて5000人もの人を一度に養われたことがありました。しかし、その時は満腹しても、暫くすると再び空腹が襲ってくるのです。いわば人間は、満腹と空腹の繰り返しです。私たちは、パンに代表されるように一時的な、時間が経てば消えてなくなるようなものにのみ心を奪われやすいものです。この世的な、現世的なものにのみ心を奪われて、それで満足してしまいやすいのです。イエス・キリストは、これを「朽ちる食物」と言われ、真の満足を与えてくれないばかりか、時間と共に消えてしまうものに過ぎない、と言われました。
もし、私たちの働く目的が朽ちる食物を得るためだけであり、一生涯この一時凌ぎの食物のためにのみ心を傾けて生きるとすれば、私たちの人生は、何と空しいものでしょうか。ただ苦労の多い一生だった、で終わってしまうことでしょう。そこで、イエス・キリストは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と言われました。さらにイエスは「私が命のパンである。私のもとに来る者は、決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」とも言われています。私達にとって、イエス・キリストこそが、命を与えて下さる方であり、私たちがこの地上にある限り、耳を傾け、信じ続けなければならない真の食物なのです。たとえ、私たちが毎日の勤労に明け暮れて、様々なストレスを抱えていたとしても、イエス・キリストを求め、彼の言に心を傾けるならば、私たちは、肉体だけでなく、心と魂にも真の安らぎと慰めが与えられ、真の英気を養うことができるのです。
キリストの下さる恵みは、決してなくならないばかりか、むしろ、信じる者の心の中でこんこんと湧き出る泉のように溢れ出てきて、日々の生きる希望と喜びを与えてくださるのです。