おはようございます。高知教会の久保浩文です。
私たち人間は、何のために生きているのでしょうか。毎朝、眠りの床より起き出で、お決まりの順序で、一日が始まり、徒に、一日が過ぎ去る、それだけであると。その間に、他の人と同じく平凡に家庭を持ち、子育てに追われ、気がついたら、人生も終盤に入っていた、という具合に人生を考えていないでしょうか。もし、私たちの人生が、空しく時を費やすだけの毎日、労苦と嘆息の繰り返しに過ぎないとしたらどうでしょうか。そこには果たして、人生に対する積極的な喜びや希望はあるのでしょうか。
また、私たちは、皆、いつかは死ぬのだから、時化た、辛気臭いことを考えるのは止めて、人生、おもしろおかしく、食べたり飲んだり、好きなことをして過ごさないと、とどのつまり後悔をすることになる、というのではないでしょうか。
このような虚無主義も快楽主義も所詮、現実からの逃避にしか過ぎません。
私たちは、皆、神によって造られたのです。神は、私たちをご自分のご計画と目的のために造られました。聖書には「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業を行なって歩むのです。」と記されています。私たちの人生が空しく終わらないためには、まず、私たちが自らの造り主であられる神を知り信じることです。
さらには、神の独り子であるイエス・キリストを信じることによって、私たちがこの地上に生をうけてからこれまで、様々な形において犯してきた罪が全て赦されるのです。「罪」というと、私たちが即、脳裏に思い描くのは、何か大きな犯罪を犯すとか、法に触れることのように思います。しかし、聖書で言う「罪」とは、造り主なる神を知らないこと、神を認めず、神から離れて生きることです。確かにその時は、自分の思い通りに何の束縛も無く、自由奔放に人生を過ごしているように思えるかもしれません。しかし、そのことについても、聖書は、私たちに鋭く詰問しています。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。ではそのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」と。
自由奔放に生きていたときの生活を振り返ってみると、それは決して、充実した意味のある人生ではなくて、むしろ、人間の欲望、自我といった罪に支配されている時であり、その結ぶ実は、恥ずべきものであり、やがては、自らを死に追いやり、滅亡へと歩みを進めているのだ、というのです。
ですから、私たちが、真に自由かつ充実した人生を送るためには、造り主なる神のもとに立ち帰り、神の御心に従って生きることです。
さらには、神の御子イエス・キリストを信じることです。神は、イエス・キリストを信じるものの、これまでの全ての罪を赦してくださるだけでなく、恵みとして、神と共に交わり、神と共に生きる永遠の命が約束されているのです。神と共に歩む人生こそ、悔いのない人生を送る唯一の道なのです。