おはようございます。山下正雄です。
何年か前、お隣りの国韓国で「君は愛されるため生まれた」という歌がとても流行ったそうです。この歌はキリスト教の歌ですが、キリスト教を信じる人もそうでない人も、この歌のタイトルはとても考えさせられる内容だと思います。
自分が愛されるために生まれてきたと実感できる瞬間をラジオをお聴きのあなたは今まで何度ぐらい経験したことがおありでしょうか。今のこの瞬間も自分が愛されているということを感じることができる人はとても幸せな人だと思います。愛されていると思える瞬間が多ければ多いほど幸せな気持ちになるものです。
多かれ少なかれ、自分が何のために生きているのかと言うことを考える時が誰にでもあるものです。人がそんなことをふと思うのは、大概は何かにつまずいているときだったりします。物事が順調で充実感を味わっているときはあまりそんなことについて考えることも少ないことでしょう。
自分が何のために生きているのだろうか、自分は誰かに必要とされているだろうか、自分がいて何か意味があるのだろうか、物事が行き詰まっているときにはふとそんなことが頭の片隅をよぎったりするものです。特に若いときにはそんな思いで悩んでしまうこともあるかも知れません。
そう考えている自分に誰かが関心を寄せてくれて、相談に乗ってくれたり、話を聞いて共感してくれたりするだけでも、そんな状態から抜けきることもできるものです。愛されてると感じる瞬間とは、決して大きな何かではなくて、自分へのささやかな関心を感じるだけでも味わうことができるものだと思うのです。
あるいは、この歌のタイトルを見ながら、こんなことも考えました。人は愛されるために生まれてきたとするならば、そのことが実感できるように自分は果たしてどれほど人を愛してきたでしょうか。誰も愛することがなければ、愛されていることなど実感できるはずはありません。誰も愛することをしないために、愛されていることを実感できない世の中だとすれば、それはとても寂しく恐ろしい世界です。
もちろん、すべての人間を愛することは、どんな人間にもできることではありません。すべての人に関心を注ぎ、すべての人を助けることなど一人の人間にはできることではないからです。しかし、たった一人のために、その人を愛することなら簡単にできるといえるものでもありません。身近な家族でさえ愛しとおすことが難しいのも人間の姿です。夫婦の愛、家族の愛が破綻してしまったために、苦しみの中にある多くの人たちがいるのもこの世の現実です。
先ほどの「君は愛されるため生まれた」という歌は、まさそういう人間の現実に向けられた歌なのです。そうであればこそたくさんの共感を得ることができたのだと思います。
この歌が歌っているのは、何よりも神の愛が一人一人に注がれていると言うことなのです。人間の愛は弱くもろいものであったとしても、神は神の愛を注ぐために人を造り、生涯愛を注いでくださるお方なのです。神にとって生きているすべての人は価値があり、神の目に尊いのです。
ラジオを聴いてくださっているあなたも、何かの壁にぶつかって思い悩むとき、神によって愛されている自分を是非思い出してみてください。